猿沢の池

謡蹟めぐり  釆女 うねめ

ストーリー

諸国一見の僧が都の寺社を参詣した後、南都奈良に向かった。頃は弥生の半ば、都の花をあとに深草宇治の里を過ぎて奈良に着き、先づ春日の社に詣でた。そこでは年若い女が境内で木を植えていた。
僧は不審に思って、これ程木深いところになお木を植え給うは何故かと問うと、女は、この神はことのほか樹木を愛し給うので、今も陰深かれと祈って植えているのであると答え、更に僧を猿沢の池の辺へ誘って行った。ここで帝の心変りを恨んでこの池に入水した采女の物語を聞かせ、自分は采女の幽霊であるとあかし、そのまま女は池の中に消え失せた。
僧は夜もすがら池のほとりで読経していると、采女の霊が現われて在りし世のこと、内裏にての御遊の有様など語り、また舞って見せ、重ねて回向を頼んで波の底深く姿を沈めた。(謡本の梗概を意訳)

春日神社、猿沢の池、采女神社他   奈良市 (平6.9記)

春日大社

本曲の前シテは春日大社に詣でる。曲中に「この山もとは端山の陰あさく、木蔭一つもなかりしを、陰頼まんと藤原や、氏人よりて植えし木の、程なくかやうに深山となる」とあるように、もともとは木蔭一つもなかったこの地に、藤原不比等らが藤原氏の氏神としてこの社を勧請し、せっせと植林したものとみえて、春日野一帯の現在は広い地域が緑におおわれて、いかにも奈良らしい素晴しい景観を誇っている。
何回が参詣したことがあるが、今回訪ねたのは4月の末でちょうど藤の花が満開であった。社殿にすぐわきには「砂ずりの藤」と名のついた名木があって、文字どおり棚からの藤の花が地面の砂をするほどに垂れ下がって咲いていた。藤原氏の氏神ということで特に藤の木を沢山植えたのであろうか。

春日大社一の鳥居 春日大社一の鳥居 社殿まで1300メートルと参道が続く 奈良市春日野町 (平6.4)

春日大社社殿 春日大社社殿 朱塗りの社殿と緑のコントラストが美しい (平6.4)

砂ずりの藤 春日大社の砂ずりの藤 社殿のそばにあり満開 (平6.4)

猿沢の池

猿沢の池といえば、誰でも修学旅行その他で一度や二度は訪ねたことのあると思われるし、私も何度か訪ねたことはあるが、この曲を知るまで采女がここで身を投げたことは知らなかった。本年ようやく池の周囲にある采女神社や采女地蔵、衣かけの柳の碑に詣での念願を果たすことができ、采女の曲や猿沢の池も一層身近に感ずるようになった。

猿沢の池 猿沢の池 采女はこの池に身を投げたという 仲秋の名月の夜、竜頭の船が浮かび、采女まつりが行われる。中央後方は興福寺五重の塔 奈良市橋本町 (平6.4)

采女神社

猿沢の池に身を投げた采女の霊を慰めるため、池のほとりに祠を建てて祀ったが、身を投げた池を見るにしのびず、社殿は一夜で向きを変えてしまったと伝えられる。現在は民家に挟まれて参詣もままならない状況である。
それでも、例祭は仲秋の明月に行われ、夕刻、龍頭鷁首の二艘の船が猿沢の池に浮かび、雅楽の優雅な調べの奏でる中、秋のさまざまな草花で飾られた花扇が奉納されるとのこと。まことに古都奈良にふさわしい行事である。
(四国旅行中9月20日仲秋の名月の日に、松山市のホテルでテレビでのニュースでこの猿沢の池の行事をたしかめることのできたのは感激であった。)

釆女神社奈良 采女神社 身を投げた采女の霊を慰めるために建てられたという 奈良市橋本町 (平6.4)

衣かけ柳の碑、九重の塔、采女地蔵

采女が投身の時に衣を掛けたという柳があった由で、そこに「きぬかけ柳」と書かれた碑が建てられている。
現在柳の木は見当たらないが大きな九重の塔が建てられ、その前には「采女地蔵」の小さな地蔵さまが置かれている。あたり一帯はきれいに整備されその美しい影を猿沢の池に落としている。

衣掛け柳碑 衣掛け柳の碑 采女が投身のとき衣を掛けたという柳があった。今は塚のみが残る 奈良市橋本町 猿沢の池東側 (平6.4)

釆女地蔵 采女地蔵 九重の塔の前にまだ新しい地蔵さまが建てられている 猿沢の池東側 (平6.4)

九重の塔 衣掛け柳の碑、九重の塔、采女地蔵 塔の左が碑、右に小さく見えるのが采女地蔵である 猿沢の池東側 (平6.4)

安積(あさか)の采女塚    郡山市   (平6.9記)

福島県郡山市にも采女伝説がある。その経緯を現地の案内板に語っていただこう。
「           安 積 采 女 の 由 来
今からおよそ千余年前、奈良の都から葛城王という方が、地方の政情視察、監督のため、陸奥の国安積の里と呼ばれたこの地に着き、村里の状況を視察されました。里人は王の気嫌を損じてはならないと懸命にもてなしましたが、ますます気嫌が悪くなるばかり、そこで国司は美人で評判の春姫を召し出しました。
春姫は心から王をもてなし、王の前に杯を捧げ
  「安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思わなくに」(万葉集)
の歌一首を献じました。和歌にすぐれた王はことのほか喜ばれ、春姫を帝の”采女”として召し出すよう申し渡しました。このため里を離れることとなった春姫は、悲嘆にくれましたが、里人の窮状を救うためとあきらめ、王とともに都にのぼりました。ある日、猿沢の池のほとりで月見の宴が開かれたとき、なつかしい里への思いがつのり、春姫は宴席を離れ、柳の木に衣を着せかけ、池に身を投げたように見せかけて、一路安積の里をめざし逃げ帰りました。ようやくの思いで里にたどり着いた春姫は、都からの後難を恐れた里人の冷やかなまなざしと、困惑した顔に生きる望みも失い、山の井の清水に身を投げこの世を果てたという。
これが伝説のあらましである。   郡山市観光協会  」

このあたりは現在山乃井公園となっており、立派な采女供養記念碑が建てられいる。近くには采女を祀る采女神社、采女が身を投げたという山の井の清水がある。少し離れた山麓に采女の塚や、葛城王(後の左大臣橘諸兄)を祀る王宮伊豆神社もある由であるが、時間の制約で参詣の機会を逃してしまった。

釆女供養碑 采女供養記念碑 安積(あさか)の里、現在の郡山市にも采女伝説がある。 郡山市片平 山の井公園 (平5.5)

釆女神社 采女神社 ここも采女を祀るという 山の井公園 (平5.5)

山の井の清水 山の井の清水 ここに采女は身を投げたという 山の井公園 (平5.5)

<追記 平13・2記>

上記は平成5年5月、教授嘱託会の名所めぐりでこの地を訪ねた時のものであり、時間の制約がありったが、その後平成12年4月再びこの地を訪ね王宮伊豆神社に詣でたり、また関西の橘諸兄の旧跡も若干訪ねたりしたので若干補足のこととしたい。

王宮伊豆神社

山の井公園から少し離れた所に王宮伊豆神社がある。この神社は葛城王(橘諸兄)と采女を祀ったが、後に伊豆権現を勧請して合祀された。境内には葛城王祀碑が建っている。碑の文字は私には読めないが橘諸兄仮御所址とのことである。また裏山には橘諸兄の墓がある。采女はこの地で投身するが、その後諸兄は再びここに来て住み、ここで生を終えたという。

王宮伊豆神社 王宮伊豆神社 葛城王(橘諸兄)と采女を祀る 郡山市片平 (平12.4)

葛城王妃碑 葛城王祀碑 葛城王の仮御所址という 王宮伊豆神社 (平12.4)

橘諸兄碑 橘諸兄の墓 境内の裏山にひっそりと立つ 王宮伊豆神社 (平12.4)

采女神社

山の井公園を前回訪ねた時には采女神社として、小さな祠が立っているだけであったが、今回はすぐ近くの丘の上に立派な采女神社が出来ているのに驚いた。周囲も山ノ井公園として整備されていた。

新釆女神社 采女神社  丘の上に新しく建てられた 郡山市片平 山の井公園 (平12.4)

井出の里 (京都府井出町)

橘諸兄は晩年を洛南の井出の里で過ごし、ここで没したと言われる。井出町石垣地区の六角井戸は諸兄の邸址と言われ、井出山中腹の玉津岡神社は諸兄が勧請した社で、境内末社に橘神社は諸兄を祀る由である。

六角の井戸 六角の井戸 諸兄の邸址という 京都府井出町 (平8.4)

玉津岡神社 玉津岡神社 諸兄の勧請した社 京都府井出町 (平8.4)

橘諸兄塚 (大阪府岸和田市)

岸和田市の久米田池近くに大きな橘諸兄塚があるが、行基の久米田池開鑿に協力した功績による供養の塚であるという。

橘諸兄の墓 橘諸兄塚 久米田池の開鑿に協力した 岸和田市池尻町 (平10.3)


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