千手の前

謡蹟めぐり  千手 せんじゅ

ストーリー

平清盛の五男、重衡は一ノ谷の合戦で捕えられ一時鎌倉の狩野介宗茂に預けられています。源頼朝はこの若武者に同情し、残り少ない命の彼を慰めるようにと自分の侍女で手越の長の娘千手の前を遣わしました。
ある春の雨の夜、宗茂は重衡を慰めるため酒を勧めにやって来ます。そこへ千手も訪れ重衡が先日頼朝に願い出た出家の望みがかなわぬことを告げます。これも南都の仏寺を焼いた罪業の報いかと嘆く重衡の心中を思いやり、千手は酒の酌をし、朗詠をうたいます。更にいつしか芽ばえた重衡への恋慕の情をこめて舞いを舞ううち、重衡も心を開いて琵琶を弾じます。千手も嬉しく琴を合わせ、夜更けまで束の間の小宴を楽しみますが、翌朝、重衡は勅命によって都へ帰されることになります。千手は二度と再び会えぬであろう、その後姿を涙ながらに見送るのでした。(「宝生の能」平成13年5月号より)

手越の宿  静岡市手越         (平16・2記)

千手は曲中に謡われているように、手越の長者の娘である。千手の出身地手越の宿は静岡市の手越のあたりで、現在も松並木がその名残を留めている。手越の長者の屋敷跡があるというので訪ねてみたが、分らなかった。
千手に関係ありそうなものといえば、「千寿の前白拍子」という酒を造っている酒屋さんがあって、その店の前に「千寿の前」と書いた看板があり、そのいわれを書いたものを発見した。大要次のように記してある。
「 前略・・千寿は静岡市手越の長者の娘として生れ「白拍子」と呼ばれる舞姫でした。・・・・千寿と平重衡との恋愛物語は「平家物語」近くは山本富士子、松本幸四郎共演の歌舞伎にて広く知られたわけですが、悲嘆やるかたなき千寿は尼となり「熊野御前」を訪ねて遠江に移り、重衡の菩提を弔い磐田に住んだと伝えられています。(現在の磐田市白拍子部落)
千寿の墓石、風雨にさらされて幾百年、今この千寿の前にあやかり麗しき美女のさずからむと手向ける娘達の野花に、戦乱の世に咲ける悲恋が偲ばれます。
清酒「千寿白拍子」はこの千寿の前にちなんで醸されたもので・・・ 」

手越の宿 手越の宿 静岡市手越 (平9.2)

千手の前 清酒「千寿白拍子」醸造元前の看板 (平9.2)

重衡とらわれの遺跡 神戸市須磨区須磨寺町    (平16・2記)

源平合戦の時、重衡は副大将として生田の森で戦ったが、敗れて西に向って逃げ、須磨の地で捕えられた。山陽電鉄須磨寺駅の近くに、「重衡とらわれの遺跡碑」が建っている。土地の人が哀れに思い名物の濁酒をすすめたところ、重衡はたいそう喜んで
    ささほろや波ここもとを打ちすきて 須磨でのむこそ濁酒なれ
の一首を読んだと伝えている。

重衡とらわれの松 重衡とわられの遺跡碑 神戸市須磨区 (平12.9)

安福寺、重衡の供養塔  京都府木津町木津   (平9・1記)

重衡はこの寺に暫く逗留しその後この地で処刑されたようである。
安福寺の由緒を要約してこの間の事情を紹介する。

『 本尊は平重衡卿生害の時の引導仏なり。堂を哀(あはん)堂と云うは、この所において重衡卿誅せらるる故に、時の人これを名づくるなり。
本三位中将生害を得らるること平家物語および源平盛衰記に記載されたり。
中将木津に着きたまえば、土肥次郎使者を南都にたてて曰く。三位中将重衡卿をば土肥次郎預かり具してこの所まで来る由を告ぐ。南都の返答に曰く。般若野の南へは入れずして相計はるべし。首をば衆徒の中に賜え。一見を加うべしと云々。かくてその日も暮れければ、木津川より南の在家の中に、大道より東南に向って一面に造りたる旧堂あり。是へぞ入れ奉りける。暁の野寺の鐘の声五更の空に響きける折しも時鳥の鳴きて西をさして行きけるを聞き給いて「思うこと語りあわせん時鳥 喜ばしくも西へ行くかな」と口ずさみ給いける。その後木津川の畔におり、すえ奉りて布革(しき)の上にすえ奉る。重衡今を限りと思し召しければ侍を召して、この辺りに仏はおわしなんやと申しければ、侍泣く泣くその辺の在家を走り巡って求めけれども、世間に恐れて出さざりければ、古堂より阿弥陀仏を尋ね出して河原の砂に東に向けて、三位中将の前にすゆる。中将合掌して念仏百返ばかり高声に唱え給いければ、頚は前にぞ落ちにける。
   元暦二年六月二十三日   』

寺の境内には十三重の立派な供養塔がある。また堤防の内側には「重衡首洗いの池」と、「不成の柿」がある由だが残念ながら見逃してしまった。「不成の柿」は重衡が最後のとき食べて以来この柿は実がならなくなったという。

安福寺 安福寺 京都市木津町 (平8.4)

重衡の墓安福寺 重衡の供養塔 安福寺 (平8.4)

重衡の墓  京都市伏見区日野     (平16・2記)

重衡の首は曝され、胴は腐乱したまま捨てられていたのを、重衡の妻が日野に運ばせ、首も俊乗坊に乞うて貰い受け、ともに火葬にして、法界寺(日野薬師)で供養し葬ったという。昭和58年に雑誌に載っている地図を頼りに探した時はなかなか見つからず、漸く民家の石塀の向こうに石塔らしいものを見つけたのが写真の石塔である。「従三位平重衡卿墓」と書かれた四角の細長い石碑が塀の隅にさびしく建っていた。権勢を極めた平清盛の第五子にあたる重衡の墓となれば相当立派なものと思い込んでいたのであるが、これが貴公子重衡の末路かと、しばし暗然とする思いであった。
今回インターネットで調べてみたら、この近くに緑地公園の中に、私が二十年も前に見たのと違うような気もするが、同じように「従三位平重衡卿墓」と記した石標と五輪塔が並んでいる由である。その写真を借用して紹介するが、重衡の安住の地を得たようで私も心休まる思いである。

重衡の墓安福寺 重衡の墓 京都市伏見区日野 (昭58.7)

千手前の墓 静岡県磐田市白拍子  (平9・1記)

千手の前は重衡が南都に渡され、木津で斬られたと聞いて髪をおろし、尼となって重衡の菩提を弔い、「熊野」のシテ熊野と一緒に池田の宿に住んだが、後、現在の静岡県磐田市で余生を送ったと伝えられる。その墓は広い麦畑の中にただ一基ポツンと建っていたというが、現在は地域の人々の心づくしにより、覆(さや)堂が出来ている。

千手の前 千手の墓(遠景) 静岡県磐田市 (平4.5)

千手の前 千手の墓(近景) 静岡県磐田市 (平4.5)


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