龍頭の松跡

謡蹟めぐり  鵜飼3 うかい 日蓮上人に関する謡蹟2

本行寺、根本寺、妙照寺、実相寺、経島、波題目、番神堂 (新潟県佐渡、柏崎)

鎌倉を追放された日蓮は文永8年、寺泊から乗船、対岸の佐渡松ヶ崎村「こうのせ」に着いた。着船した地には本行寺が建立されている。着船した日蓮は浜近くの山裾にあった大欅の空洞で一夜を過ごした。現在もお欅として大事に保存されている。
本行寺の境内には「龍燈の松」という大木があった。上人が渡海のとき、龍神がこの松の梢に明かりをつけて着岸の地を示したのだという。私が訪ねた時は切り倒されて間もない頃と見えて真新しい切り口が残されていた。

本行寺佐渡 本行寺 日蓮着船の地に建てられた 佐渡畑野村松ヶ崎 (平7.6)

お欅 お欅 着船した日蓮はこの大欅の空洞で一夜を過ごした。 佐渡畑野村松ヶ崎 (平7.6)

龍頭の松跡 龍燈の松跡 龍神がこの松に明かりをつけ日蓮を導いたという 本行寺境内 (平7.5)

山を越えた日蓮は塚原の三昧堂という荒れ果てた小堂に入れられて、翌年市野沢に移されるまで半年間ここに住んだ。日蓮はこの三昧堂で国中から集まった他宗門の僧たちとの法論に勝ち「開目抄」を書いたという。
この地に後年立派な根本寺が建立されたが、この寺の仁王門の右手前に犬塚という小さな塚がある。
あるとき、日蓮をねたむものが食物に毒をいれて殺そうとした。不審に思った日蓮がかたわらの犬に与えたところ、犬が死んでしまった。食事を運ぶ阿仏房がその話を聞きその犬を葬ったものと伝えられる。

根本寺 根本寺 この寺の境内に三昧堂、犬塚がある 佐渡新穂村 (昭59.7)

根本寺三昧堂 根本寺三昧堂 ここで「開目抄」を書いた 根本寺 (昭59.7)

犬塚 犬塚 日蓮の身代わりになって死んだ犬を弔う 根本寺 (平7.6)

文永9年、日蓮は塚原から市野沢に移され2年間ここに住んだ。この跡地に妙照寺が建立されている。寺には上人自筆の曼陀羅などが寺宝として伝えられているとのこと。
妙照寺の近くにある実相寺も日蓮が妙照寺に幽居していたとき、毎朝早くここへ来て、東方の故郷安房の両親を追慕し、朝日を拝んで題目を唱えるのを常としていたという。その思親拝日の際、手を清め、口をすすぐため、一本の老松に袈裟を掛けていた。境内の東南にいまも「袈裟掛けの松」が植え継がれている。

妙照寺 妙照寺 塚原からこの地に移り住んだ 佐渡佐和田町市野沢 (平7.6)

実相寺 実相寺 日蓮が毎日朝日を拝したところ 佐渡佐和田町市野沢 (平7.6)

袈裟掛けの松 袈裟掛けの松 拝日のため袈裟を掛けたという 実相寺 (平7.6)

文永11年赦免となったが、日蓮の赦免状を持った高弟日朗が沖合で難船、元小木の経島に漂着し、岩の上で題目を唱えているのを聞きつけた村人が舟を出して救助したという。今は朱塗りの橋がかけられて徒歩でも渡ることが出来る。島には「日朗聖人赦免状奉持着岸之御霊地」と読める木柱が立っている。

矢島経島 経島 日朗上人が漂着した島、手前は矢島 佐渡小木町 (平7.6)

日蓮上人着眼地 日朗上人着岸地 木柱が立つのみである 佐渡小木町 (平7.6)

赦免された日蓮は山を越えて赤泊町真浦に出て乗船寺泊に向かった。真浦の海岸には日蓮赦免乗船地の碑が建てられている。また文政6年に建てられたという波題目の碑がある。碑文の一節には「日蓮上人北国に流され、四年を送り、文永十一年の春赦免を得て、此浦より船に乗り、鎌倉へ帰る。それよりして、月明らかなる夜に、信心そおこし、海上を見れば、波のあや題目の文字をなすとから、是を伝へて波題目といふ」とある。その後もこの海上で信心の深いものは拝むことができると伝えられている。
また、聖訓碑が建てられていて、日蓮直筆の文字を銅板に刻み、傍らに解読したものが添えられている。こうの尼御前にあてたものである。
どのような関係にあった方か分からないが、日蓮上人にもこのような一面があったのかと驚かされたので掲げてみる。
「 それはつらかりし国なれども、そりたるかみをうしろへひかれ、すすむあしもかへりぞかし。日蓮こいしくをはせば、常に出る日、ゆうべにいづる月を、をがませ給へ、いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。南無妙法蓮華経 日蓮 さどの国のこうの尼御前 」
寺泊に向かった船は大風にあって流され、柏崎に漂着した。その地に番神堂が建てられている。

赦免乗船値碑 日蓮赦免乗船地の碑 中央の碑には南無妙法蓮華経、右側の碑には遠流赦免帰還之聖地と刻まれる 佐渡赤泊町真浦 (平7.6)

波題目 波題目の碑 文政年間に建てられた碑 佐渡赤泊町真浦 (平7.6)

聖訓碑 聖訓碑 日蓮が尼御前にあてた文 佐渡赤泊町真浦 (平7.6)

番神堂 番神堂 日蓮を乗せた船はここに漂着した 柏崎市番神 (平6.10)

身延山久遠寺  (山梨県身延町)

日蓮は赦免されて鎌倉に戻り、鎌倉幕府と蒙古襲来の時期と対策について話し合った。
しかし日蓮の進言はいれられず、挫折感を抱いた日蓮は流浪の旅に出た。甲斐の国、身延で領主南部実長の支援のもとここに落ち着くこととなった。
久遠寺は日蓮建立の寺であり、草庵址も残されている。奥の院には思親閣がある。今はロープウエイが通じているが、5キロ以上の急な坂であり、日蓮は毎日のようにここに登り、今は亡き安房の両親を偲んだという。後に日朗が建立したものという。日蓮手植えの杉もある。

久遠寺三門 久遠寺三門 涅槃の本堂に対し、その正面の門を三解脱門にたとえて三門という 山梨県身延町 (昭59.12)

久遠寺祖師堂 久遠寺祖師堂 祖師日蓮上人を祀る堂である 山梨県身延町 (昭59.12)

久遠寺奥の院 思親閣 日蓮はここで両親を偲んだという 久遠寺奥の院 (平10.10)

日蓮手植えの杉 日蓮手植えの杉 濃霧のため不鮮明 久遠寺奥の院 (平10.10) 

日蓮は身延山でも多くの僧俗の教化につとめたが、次第に健康も蝕まれ8年を経て弘安5年(1282)、病は重くなり、常陸の温泉で療養すべく身延山を下った。

洗足池、本門寺   (大田区池上)

身延山を下りた日蓮は、富士吉田、山中湖北岸、三国峠、平塚を通過して、洗足池にいたる。ここで休んで手足を洗ったので、それまでの千束池を洗足池に改めたという。
この後、大田区南馬込の万福寺に一泊、池上の信奉者池上右衛門大夫宗仲の邸に滞在中、弘安5年10月13日朝61歳の生涯を終わった。その地に宗仲が寺を建立したのが池上の本門寺であり、入滅の場所が本行寺である。入滅の旧跡や石碑、また日蓮上人の石像などがある。
また、入滅に際し庭前の桜が時ならぬに花開き、法性を表わしたといわれ、今でもお会式に桜をさすいわれはここに始まる。この桜は今でもお会式桜と呼ばれ、10月頃花開き当事の古事を伝えている。

洗足池 洗足池 日蓮上人がここで休み手足を洗ったのでこの名がついたという 大田区千束 (平5.1)

本門寺 本門寺 池上宗仲が建立した日蓮宗総本山 大田区池上 (平5.1)

本行寺 本行寺 日蓮入滅の地 本門寺境内 (平5.1)

上人入滅霊跡碑 宗祖日蓮大上人御入滅霊跡の碑 本門寺境内 (平5.1)

お会式桜 お会式桜 日蓮上人入滅に際し庭前の桜が時ならぬに花開いた。今でもお会式桜といわれ、10月頃花が開くという 本門寺境内 (平5.1)

元寇の古蹟 (九州各地)

日蓮は蒙古の来襲を予言し、その対策を進言して調伏の論陣を張ったため、幾度か危難に遭遇した。そして実際に文永11年および弘安4年に蒙古軍の襲来を受けた。
文永の役、弘安の役である。
九州各地に元寇に関する古蹟が沢山あるようだが、私が訪ねた福岡市東公園内の日蓮像、日蓮上人聖語碑、福岡市筥崎宮にある元寇防塁・蒙古軍船碇石と元寇歌曲碑、佐賀県呼子町田島神社にある元寇の碇石のみを掲げてみる。

上人像福岡市 日蓮像 福岡市東公園に立つ 福岡市博多区東公園 (平2.8)

上人聖語碑 日蓮上人聖語碑 「われ日本の柱とならん、われ日本の眼目とならん、われ日本の大船とならん」と刻まれている 福岡市博多区東公園 (平2.8)

蒙古軍船碇石 元寇防塁・蒙古軍船碇石 碇石は博多港で見つかったものという 福岡市 筥崎八幡宮境内 (平8.5)

元寇歌曲碑 元寇歌曲碑 「四百余州を挙る 十万余騎の敵・・」という「元寇」の歌詞と楽譜が刻まれている 筥崎八幡宮境内 (平8.5)

元寇碇石 元寇の碇石 呼子島東方の玄海灘の海中より引き揚げられたという 佐賀県呼子町 田島神社 (平11.11)


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