忠信花矢倉

謡蹟めぐり  忠信 ただのぶ

ストーリー

源義経は、梗概兄頼朝に都を追われ吉野の衆徒を頼り、吉野山中に潜んでいました。しかし、家臣の伊勢三郎義盛から衆徒が変心したという報告を受けると、佐藤忠信一人に防ぎ矢を命じ、義盛らを従えて山を落ち延びて行きます。
その夜更けに衆徒達が大挙して押し寄せてきます。すでに覚悟を決めた忠信が高櫓に上り大声で、まず試しにこの矢を受けてみよ、と言って矢を放ち、真っ先に進み出た若武者を一騎射落します。これを見た敵は右往左往するばかりです。
機を見て忠信は切腹したと見せかけて、深い谷に落ちます。敵はそこに乱れ入りますが、忠信はかねてから用意しておいた細い道づたいに身を隠しながら逃げます。なおも迫り来る追っ手を切り散らし、遙かな谷を越え、峰を分けて都へと急いで行きます。(「宝生の能」平成13年10月号より)

佐藤忠信花矢倉、横川覚範の首塚 和歌山県吉野山 (平18・11記)

吉野山の水分神社の少し下の方に佐藤忠信花矢倉の跡がある。またそのすぐ下には忠信に討たれた横川覚範の供養塔、首塚がある。説明板には次のように記されている。

「 この下の横川覚範の首塚で見てきたように、源義経の身代りとなって主従を落ちのびさせるために、佐藤忠信が一人ふみとどまり、追いすがる敵を切り防いだ古戦場で、ここが佐藤四郎兵衛忠信の花矢倉です。
忠信は小高いこの丘に上って、攻め寄せる僧兵、なかでも妙覚院の豪僧、横川の覚範に向って、矢を雨のようにあびせかけ、深い雪で血刀をふるって戦った、その昔のいくさの様子が、そぞろ思い起こされます。
忠信は、奥州信夫(福島市)の庄司、佐藤元治の子で、源義経が金売り吉次に伴われて、平泉(岩手県)の藤原秀衡のもとに身を寄せたときに兄継信とともに、義経の家来になった侍で、弁慶とならんで義経の片腕として、おおいに活躍したのでした。
忠信はここで攻め来る敵を追い散らした後、命ながらえて京都へ潜入し、身を隠していたところを襲われ、自殺して果てました。
年わずか二十八歳だったと、「義経記」は伝えています。 吉野町観光課 」

忠信花矢倉 佐藤忠信花矢倉 奈良県吉野町吉野山 (平13.7)

横川覚範供養塔新 横川覚範の供養塔 奈良県吉野町吉野山 (平13.7)

横川覚範の墓 横川覚範の首塚 奈良県吉野町吉野山 (平13.7)

源義経隠れ塔 奈良県吉野町 (平18・11記)

吉野山の金峯神社の左の小道を下った所に源義経隠れ塔がある。本来は大峰修行場の一つで、この中に入って扉を閉じると中は真っ暗になり、神官の船頭に従って
   吉野なる深山の奥のかくれ塔  本来空のすみかなりけり
と唱えながら塔内を巡る由である。
文治元年十一月、義経がこの塔に隠れ、追手から逃れるために屋根を蹴破って外へ出たため、「義経の隠れ塔、蹴抜けの塔」とも言われている由である。
忠信の古蹟はこの他にも兄継信母との関連で沢山あるが、「摂待」の項で取り上げたいので、併せてご覧願いたい。

義経隠れ塔 源義経隠れ塔 奈良県吉野町吉野山 (平13.7)


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