一ノ谷の合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄は、忠度の矢壷にあった短冊を合戦の後、忠度の和歌の師であった藤原俊成に届けました。短冊には旅宿の花と題して「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵のあるじならまし」の一首が書かれています。
俊成は忠度が出陣の前、自作の和歌を納めた巻物を預けて行ったことなどを思い出し、その冥福を祈っていると、目の前に忠度の亡霊が現れます。忠度は自分の詠歌が千載集に詠み人しらずとして入れられた恨みを俊成に述べますが、朝敵ゆえに名は隠したがこの歌があれば永く名誉を残すことはまちがいないとの慰めに、心を安めます。そして、和歌にまつわる古事や功徳を述べたあと、急に気色がかわり修羅道の責めに苦しむさまを見せますが、やがて自分の詠んだ歌の徳によって成仏できると言いおいて春暁の木の間に消え去ります。(「宝生の能」平成11年2月号より)
岡部六弥太忠澄は、本曲ではワキとして登場するが、埼玉県岡部町の普済寺近くの畑の中に立派な六弥太の墓がある。墓の側にある説明には概略次のように記されている。
「 忠度を討った岡部六弥太忠澄は、源義朝の家人として保元・平治の乱に活躍した。その後、源氏の没落により岡部にいたが、治承4年(1180)、頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曽義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では平家の名将平忠度を討ち、一躍名を挙げた。恩賞として荘園5ケ所および伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際の譜代の家人313人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。 」
最初、平忠度の墓がどうしてこの地にあるのか不審に思っていたがこの説明を読んで納得した。それにしても自分の手にかけた敵将を弔うため、自分の領地の一番景色の良い所にお寺を建て菩提を弔うという岡部六弥太の心根には心を打たれる。
敦盛を手にかけた熊谷次郎直実が後に出家してその菩提を弔ったこと、後に自分が討たれることとなる義仲を助けた実盛のこと等思いあわせ、この頃の武将には武勇に優れるだけでなく、情に厚い人が少なからず存在していたことを知り心温まる思いがした。
清心寺の忠度の墓前には後に忠度の妻の菊の前が夫の冥福を祈って植えた桜が、紅白の二花相重なる夫婦咲きとなり、忠度桜として有名とのことである。
普済寺 埼玉県岡部町 (平6.4) 岡部六弥太の墓はこの寺の近くの畑の中
岡部六弥太の墓遠景 埼玉県岡部町 (平6.4) 個人の墓と思えないほど立派な墓である
岡部六弥太の墓近景 埼玉県岡部町 (平6.4)
清心寺 埼玉県深谷市萱場 (平6.4)
平忠度の墓遠景 清心寺 (平6.4)
平忠度の墓近景 清心寺 (平6.4)
俊成は平安末、鎌倉初期を代表する歌人で定家の父であり、後白河法皇の命により「千載和歌集」を選じた。俊成社は藤原俊成の邸跡といわれ、後世の人が俊成の霊を祀ったものといわれる。祭神は藤原俊成。烏丸の大通りに面しすぐ下には京都の地下鉄が走っている。本曲の舞台ともいうべき所で往時はかなり広い場所であったと思うが、昨今の土地事情の中で、ビル街の一角によくこれだけの場所を確保しておられるものと思う。史跡を大切にする京都ならではのことで、私どもには嬉しい限りである。
俊成社 京都市下京区俊成町 (平8.4)
烏丸通りをへだてて俊成社と相対する位置にある。商店や民家が立て込む谷間のようなところが境内で、社殿への参道の路地のようである。藤原俊成が邸内に紀州和歌ノ浦の玉津島神社から衣通姫を勧請して祀った社と伝え、以来和歌の守護神として朝野から尊崇されている。
社前の松原通りはもとの五条大路だったが、応仁の乱後、この通りの南は人家もほとんど無く、遠くからこの社の松並木を望むばかりだったので、松原通りの名が出たといわれる。
新玉津島神社 京都市下京区玉津島町 (平8.4)
伏見区願成町に立派な石塀に囲まれた俊成卿の墓がある。石塀の中には俊成卿と夫人の墓が二つ並んでいる(向って左が夫人の墓という)ほか、東福寺塔頭南明院の開祖の墓もあるが、この墓地は東福寺の墓地ではないようである。私は最初東福寺にあると思い訪ねたがなかなか見付からず苦労した思い出がある。
青木実著「謡蹟めぐり・京都編」に東福寺(東山区本町十五丁目)に俊成卿の墓があると記されている。これを頼りに訪ねたのだが、境内にある案内図を見ても「俊成の墓」というのがなかなか見付からない。何人かに聞いたが知らないという。境内を出て道を歩いている人に訪ねて漸くかなり離れた所にあることが分かった。京都にいる長男と一緒に何人かに聞いたのち漸く探し当てることが出来た。どうやら東山区ではなく伏見区願成町のようである。ここでだいぶ時間をとってしまったので、この後予定していた伏見稲荷の参詣は後日に譲ることとして宿に戻ってしまった。苦労しただけに思い出深い所ではある。
俊成の墓 京都市伏見区願成町 (平5.11)
蒲郡市の竹島の山上には八百富神社があり、俊成が三河守として赴任した時、竹生島から弁財天を勧請したもので、もと竹島弁天と称し、境内には俊成を祀る千歳神社があるという。
平成4年、嘱託会の名所めぐりに参加してこの地を訪ねたが、時間の関係で竹島には渡れなかった。然し竹島に渡る手前の海岸公園には藤原俊成卿のみごとな像が建っており、嘱託会員であり、この地の公民館長でもある冨田正代司さんから詳細な説明を聞くことができた。
竹島弁天 愛知県蒲郡市竹島町 (平4.5)
藤原俊成卿像 愛知県蒲郡市竹島町 (平4.5)