首洗い池

謡蹟めぐり  実盛 さねもり

ストーリー

巡国行脚の僧、加賀の国篠原の里において、数日の間人を集めて説法を試みているところに、不思議にも余人にはその姿が見えず、ただ上人にのみ見ることの出来る老翁が一人、毎日その説法の座にきて、熱心に聴聞するので、上人は怪しんである日その名を尋ねたのである。
すると翁は、この称名の時節にあうことは、盲亀の浮木にあうようなもの有り難さを感じているのに、いまさら名を名乗ることは情ない、と一度は断るのであったが、上人の重ねての所望によって、あたりの人を退けてもらった後、「むかしここで斉藤実盛が討死にした時、前にある池水で、その鬢髭を洗ったのであるが、その執心が今も残って折々は幻のように見えるという。まことはわれはその実盛の幽霊である」と明かして老人はそのまま池のほとりに消え失せる。
そこで上人は池のほとりに出て、ねんごろにその跡を弔っていると、甲冑に身を固めた老武者の姿で再び現れ、老武者と侮られぬために、鬢髭を染めて出陣したが、手塚の太郎光盛等の、手にかかって打ち負かされ、ついに義仲の眼前に、首を洗われた一条の物語から、錦の直垂を着て出陣した由をかたり、さらに懺悔のためにとて、篠原の合戦の有様を示し、跡を弔ってたまわれと願い、南無阿弥陀仏の声のうちに、ついに姿は消え失せるのである。(謡本より)

斉藤別当実盛の生涯      (平8・2記)

実盛については、曲中に、実盛の生国は越前の者だが、武蔵の長井に居住仕したとか、源氏の武士かと思っていたら、平宗盛から錦の直垂を賜って北国へ出陣したとか書かれてあり、また、木曽義仲にとっては実盛は命の恩人ということも聞いていたが、このあたりの経緯を詳しく知りたいと思っていた。
たまたま一昨年、埼玉県妻沼町にある実盛の舘跡を訪ね、その後実盛が開創された妻沼聖天山に参詣し、そこで奈良原春作著「斉藤別当実盛伝・・源平の相克に生きた悲運の武者」(さきたま出版会)を購入していたことを思い出し、今回改めて読み直してみて多大の感銘を受けた。240頁の書物でありその全容を紹介することは出来ないが、私の疑問に思っていた点を箇条書きにまとめてみた。

  • 斉藤実盛は大治元年(1126)越前国南井郷で、藤原氏の末裔、斉藤則盛の子として生まれ助房と命名された。
  • 助房13歳の時、釣った魚を酔った侍に因縁をつけられ、やむなく殺してしまった。
  • 父は助房を従兄弟で武蔵の国長井の庄(現在の妻沼町あたり)の管理者となっていた斉藤実直の養子として手ばなした。実盛と改名。
  • 永治元年(1141)養父実直が急死、実盛は16歳で長井庄統括の責任者となる。百合姫と結婚。男子出生。
  • 久安2年(1146)源為義より召集あり、京都に上り対面。歓喜天を発見入手。
  • 久安5年(1149)二男景房出生、同7年妻百合姫逝去。
  • 源為義解官、義時に家督を譲る。
  • 久寿2年(1155) 義時、長子義平に密命を下し、実弟義賢(義仲−幼名駒王−の父)を討たせる。駒王は母小枝とともに留守にしていたため難を逃れたが、義平は部下の畠山重能(重忠の父)に駒王殺害を命ずる。畠山重能情において忍びず、実盛に助命方相談する。実盛は短期間かくまった後、根々井の大弥太を介して木曽に住む信濃権守中原兼遠に駒王母子を託す。
  • 保元の乱(1156) 後白河天皇と崇徳上皇との争いで天皇方の勝利。
    後白河天皇方 藤原信西、源義朝、平清盛
    崇徳上皇(讃岐に流さる)方  源為義(義朝の父、斬罪)、為朝(大島流罪)、平忠正(斬罪)
    実盛も源義朝の召しにより参戦、軍功をあげ義朝より兜を拝領する。
  • 平治の乱(1159) 源義朝、平清盛対立 藤原信頼、義朝挙兵、清盛に平定さる。
    義朝・義平は殺害、頼朝は伊豆に流罪、信頼は斬罪。
    実盛は義朝と一緒に戦い、敗れて東国へ落ちる途中、僧兵に妨げられたが実盛の機知によりこれを逃れた。東海道を下ろうと堅田浦を過ぎて勢多へ来た時、義朝は皆の者に暇を遣わし国元で再起を待つよう申し渡し、実盛等20余人の部下と別れる。実盛も長井の庄に戻る。
  • 仁安元年(1166) 長井の庄は清盛の二男、宗盛の所領となり、実盛は宗盛の懇望を受け、平家の家人となる。
  • 義仲の元服祝いにかって義時から拝領した兜を贈る(多太神社に残る兜)。治承4年(1180)8月、源頼朝伊豆に挙兵、石橋山に敗れる。
    9月、源義仲木曽で挙兵。
  • 木曽義仲を迎え討つべく北陸出陣の下命を受ける。実盛は宗盛に錦の直垂を所望する。この部分と実盛最後の部分、少し長くなるが引用させていただく。

「 大殿、このたび北陸出陣の御下命、実盛有難く承りました。が、それについて実盛お願いの儀がござります。わが斉藤は鎮守府将軍藤原利仁公よりわかれ、氏祖徐用が斉藤氏を名乗り、以来分流して何家にもわかれ、あるいは林、富樫、後藤、新藤なんぞと氏を変えてはおりますものの、北陸の地にはわれらが一族、互いに睦み合い繁栄しております。
実盛、ゆえあって十三歳のみぎりより、武蔵国長井庄に住居いたしてはおりますが、もとをただせば越前の生まれ、諺にも故郷に錦を飾ると申します。この度の晴れの戦、生国で最後の御奉公ができますことは、武者としての面目この上もなき事と存じます。つきましては大殿、おそれ多い事ながら御免蒙って錦の直垂を着用させていただく所存」
「おう、実盛、その心構えあっぱれ、わしが見込んで家人にした甲斐もあろうというもの、わしの錦に直垂をつかわそう。大将軍とはいえ維盛は若年、何かと補佐して存分に、故郷に錦を飾るがよい」

実盛にとってはこの上もない引出物である。権威地におちたりとはいえ、従一位内大臣愛用の錦の直垂を頂戴したのである。心もはずむ思い、ましてや危い命を助け、信濃に逃したあの駒王が、今や天地を震駭させるほどの大将軍になったとは、嬉しいことだ。ふと、根々井大弥太の得意そうな顔がうかんだ。駒王の元服にあたって実盛にもぜひ一役買ってもらいたいといって長井庄の舘をおとずれた時に、
「十二、三年もたってみい、北陸道に源氏の大将軍が生まれるぞよ、根々井の大弥太、長くもない一生を駒王殿に賭けることにした」
と、物につかれたような口ぶりでいったあの顔が眼の中に浮んでくる。さぞかしわが意を得たりと、酒でもくらっていることであろう。夢幻のような人生である。あれやこれやのことどもが脳裏に去来する。義仲の動静を聞くたびに、何回ともなく繰り返した長井舘での回想をなつかしんで来た実盛である。
その義仲と敵味方となって、これからの合戦のために出陣する。これも何かの因縁ごとか、実盛は年久しく使い馴れた郎等を呼び集めて、出陣を祝う盃をあげた。」

「武蔵国の住人長井斉藤別当実盛当年五十八歳、追討軍の平家は皆敗走してしまったが、ただ一騎引返し、ここが最後の死に場所と心に期して戦っていた。
そのいでたちはと見れば、赤地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧を着、黄金作りの太刀をはき、きりうの矢(白に数条の黒い斑文のある羽ではいだ矢)を負い、滋藤の弓を持ち、連銭葦毛の馬に黄覆輪の鞍を置いて乗っていた。」

「・・・実盛は鍛錬によって壮者をしのぐ体力と、強靭な精神力を持っていた。しかし連日の戦に心身ともに疲れている。その上二刀刺された傷のいたみに、はね返すことができない。最後の時がきたのだ。瞬間、長井舘で差し上げた駒王、小枝の憂いに満ちた顔、大弥太の酒やけのした得意顔、走馬灯のように脳裡をかすめた。そして、この首を見て義仲殿、どんな顔をするやら、思わず口元に笑みがわいた。と、同時に瞑目して身体の力を抜いた。光盛はすばやく太刀をひきぬいて、実盛の兜をしっかり押え、一瞬息をととのえ、
「御免!」
と、たった一掻きで首をはねた。かくして実盛の一生は終った。さっと一陣、実盛の霊魂を天国に運ぶかのように風が吹き抜けていった。」

読み終えて、実盛についてのいくつかの疑問も氷解し、あわせて坂東武者の鑑みともいうべき実盛なる人物の片鱗に接し得て、まことに爽やかな気分であった。熊谷直実といい、実盛といい、武者といっても戦さが強いだけの武将であったのが嬉しい。「実盛」の曲がますます好きになりそうである。

謡蹟 実盛首洗池、実盛塚、多太神社、実盛の兜 (平4・4記)

平成2年10月、金沢で開催された官練のクラス会に参加した折、北陸の謡蹟めぐりをしてきた。
山代温泉に泊まった翌日、タクシーで先ず加賀市片山津温泉の近くにある「実盛首洗いの池」に行ってもらう。この辺り一帯が篠原の古戦場で、寿永2年5月倶利伽羅の戦いで木曽義仲軍の火牛の攻撃にもろくも敗れた平維盛の軍勢が陣を立て直し、義仲軍と戦った所とのことである。
この時、源氏を迎えて再び敗れ敗走する平家の中にあって斎藤別当実盛は只一騎踏みとどまり、源氏の手塚の太郎光盛と相対し、劇的な最後を遂げた。手塚の太郎が討ち取った敵将の首をこの池で洗ったところ、黒髪はたちまち老齢73歳の実盛の白髪とわかり、旭将軍義仲は己が幼い頃の命の恩人実盛の痛々しい首級を前に、万感の念に胸迫ってハラハラと落涙したといわれる。
近くには芭蕉の句碑が建てられている。
      むざんやな 兜の下の きりぎりす
池のすぐそばには立派な道路が出来ていて自動車の往来が激しいが、それでも池の周りは辛うじて静寂を保っており、周囲の木立ちも当時の面影を僅かながらとどめているように思われた。

ここから海岸のほうへ1キロほど行ったところに「実盛塚」がある。実盛の遺骸を葬った墓所で、本曲の舞台ともいうべき所である。松林の中の靜かな場所に、石垣で囲まれ老松に覆われた老武者実盛にふさわしい立派な塚である。

案内板よりの抜粋
「 康応2年(1390)時宗総本山(相模藤沢の清浄光寺)14世遊行上人太空が此の地へ来錫の節、実盛の亡霊が現われ上人の回向を受けて妄執をはらし、上人は実盛に「真阿」という法名を与えられたと伝えている。
以来歴代の遊行上人が加賀路を巡錫の節には必ず立ち寄って此の塚に回向された。謡曲「実盛」はこれらの伝説に基づいて作られたものである。 」

今回の旅行では富山県の石動から倶利伽羅峠の「巴塚」「葵塚」「猿ケ馬場古戦場」等も訪ね、義仲が火牛で攻撃した所も見てきているだけに、当時の源平の戦いがより身近に感じられる。実盛の塚に向かって手をあわせていると、本曲の最後の部分の
   「終に首をばかき落とされて、篠原の土と成って、
    影も形もなき跡の、影も形も南無阿弥陀仏、
    弔らひてたび給へ跡とむらひてたび給へ」
の実盛の声が聞こえてくるような気がした。
この後、「安宅の関址」を見て小松市の「多太神社」を参詣する。ここには実盛が着用した兜がある。木曽義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して奉納したものの由である。

首洗い池 首洗池 加賀市芝山町 (平9.6)

実盛塚 実盛塚 加賀市篠原新町 (平2.10)

多太神社 多太神社 小松市上本折町 (平2.10)

芭蕉句碑 芭蕉句碑 首洗池傍ら (平9.6) 

<追記 (平14・11記)>

その後、この首洗池、実盛塚、多太神社には3回ほど訪ねた。最初訪ねた時には気がつかなかったもの、新しく造られたものもあるので補足のこととする。
首洗池の後方は小高い丘となっており、その丘の上には実盛の兜を祀るという「兜の宮」があり、池の周囲には「篠原古戦場跡」の碑や、「三人の武者の像」が建てられていた。三人の武者の説明は見当たらなかったが、実盛の首を抱いているのは、義仲、他の二人は実盛を討った手塚太郎光盛と曲中にも出てくる樋口次郎兼光ではなかろうか。
義仲にとって実盛は単なる敵ではなく命の恩人である。実盛の首を手に持つ義仲の心中はいかばかりであったことか。
池の傍らの休憩所内部の周囲には、義仲挙兵から、倶利伽羅合戦を経て篠原合戦に至るまでの有様を絵巻風にして8個の額に納めて掲げてあるが、その中の首洗いの場面のものを紹介する。
多太神社の宝物館には実盛の兜の実物が展示されてあったが撮影禁止。神社入口に兜の碑があるのでそれを写してきた。

兜の宮 兜の宮  首洗池後方の丘 (平9.6) 実盛の兜を祀るという

篠原古戦場碑 篠原古戦場跡の稗 首洗池傍ら (平10.5)

三人の武者像 三人の武者の像 首洗池傍ら (平9.11) 首を抱いているのが義仲

首洗いの図 首洗の図 首洗池傍らの休憩所 (平9.6)

実盛の兜碑 実盛の兜碑 多太神社 (平9.6)

斉藤別当実盛の舘跡 埼玉県妻沼町西野 (平8・2記)

熊谷駅から国道407号線を北上すると妻沼町に入る。このあたり広々とした畠が続きのどかな田園風景である。福川に沿って土手を進むと畠の中に舘跡の碑と供養塔が建っている。このあたり交通の便もよく長井庄の中心であったと伝えられる。

実盛館跡埼玉 実盛の館跡 埼玉県妻沼町西野 (平6.4)

妻沼聖天山 埼玉県妻沼町妻沼 (平8・2記)

舘跡からさらに北上すると利根川の近くに妻沼聖天山がある。ここは実盛が治承3年(1179)古社を修造、守本尊の歓喜天を奉祀して聖天宮と称し、長井庄の総鎮守としたのに始まるものである。幾多の変遷を経て宝暦10年(1760)林兵庫正清により現在の堂が完成された。本殿は奥殿、中殿、拝殿よりなる廟型式の権現造りで、桃山建築美を伝える江戸中期の貴重な文化財である。
関東平野の真ん中の畠の中に、僧侶でもない実盛がどうしてこのような立派な聖天山を開創したのか不思議であるが、考えてみればその気持ちも理解できなくはない。義仲が身内の手により殺害されそうになるのを見るに忍びず助けてやったり、保元、平治の乱にあっては、武士として戦うのはやむを得ないとしても、肉親を互いに殺し合う場面をいやと言うほど見せつけられてきた実盛にとっては、なにかにすがりたくなるのは当然のことと思うのである。

妻沼聖天山 妻沼聖天山 埼玉県妻沼町妻沼 (平6.) 守り本尊の歓喜天を奉祀、長井庄の総鎮守とした

湯島聖天、庭前の池  文京区湯島     (平8・2記)

受験祈願で有名な湯島天神の階段をおりた所に湯島聖天がある。ここは実盛の別邸跡ともいわれ、境内には庭前の池がある。昔はかなり大きかったというが、現在はその形が少しばかり残るだけである。昔はここも長井といっていたそうで、武蔵の長井はここという説もあるとのことである。

湯島聖天 湯島聖天 文京区湯島 (平3.1) 実盛の別邸跡という

庭前の池 庭前の池 湯島聖天 (平6.1) 昔はかなり大きかった由

保元寺、実盛石仏 台東区橋場  (平8・2記)

隅田川沿いの台東区橋場の保元寺の境内には実盛の石仏と称するものがある。木内氏によれば、「実盛の供養塔で実盛の子孫が元禄7年(1694)に立てたが、関東大震災で壊れ笠石だけとなったもので、仏像が祀ってある。」としている。

保元寺 保元寺  台東区橋場 (平3.1)

実盛石仏 実盛石仏 保元寺 (平3.1) 実盛の供養塔という

実盛池、実盛塚、実盛館跡  福井県丸岡町  (平14・11記)

福井県丸岡町長畝の田圃の中に実盛池があり、実盛誕生の際にこの池の水を産湯に使ったと言う。池の周囲約40メートル。深さ10メートル。池の周りには二本の松の大木があり、その下に「正瑞院殿覚雄真円大禅定門」と刻まれた石塔が一基あり実盛塚と呼ばれている。私が訪ねた時は池に水は見られなかったが、実盛池花菖蒲園にもなっているので、花の頃はみごとと思う。少し離れた所には実盛の館跡があり実盛堂が建っている。堂内には仏師新井九兵衛作による実盛の武人像が祀られている由である。

実盛池丸岡町 実盛池 福井県丸岡町長畝 (平13.8) 実盛が産湯を使ったところという

実盛塚丸岡町 実盛塚  福井県丸岡町長畝 (平13.8)

実盛堂 実盛堂 福井県丸岡町長畝 (平13.8) 実盛の館跡で、その像が祀られる

実盛投鏡の池  加賀市深田  (平14・11記)

広さ12平方メートルの小さな池であるが、底に凝灰岩製容器に入った直径8.5センチの柄のない銅鏡がおさめられており、裏に鶴亀の模様がある。実盛が出陣するにあたり、髪を染めるのに使った鏡を投じたものいわれる。この池の冷泉は常に湧出しており、飲料水にも用いており、日照りの時にはこの鏡を祀って雨乞いをすると効験があるという。

実盛投鏡の池 実盛投鏡の池  加賀市深田  (平9.6) 髪を染めるのに使った鏡をこの池に投げたという


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