錦木束

謡蹟めぐり  錦木 にしきぎ

ストーリー

諸国修行の僧、陸奥へ下り狭布の里についた。すると夫婦の里人、女は細布を持ち、男は美しく飾った錦木をかたげているので、不思議の売りものかなとたずねると、この処の名物と答え、恋慕の通にかかわりありとて、細布ははたの幅が狭いので、胸があいにくいのを、逢いがたい恋にたとえて歌にも詠まれているといい、なおも錦木の物語をする。
昔からこの所の風習で、恋する男は女の家の門に、錦木を作って立てる。女は逢いたい男であればとり入れるが、逢いたくないもののはそのままにしておく。この山陰に錦塚というのがあるが、それは三年まで錦木をたてつづけた人の古墳で、錦木とともにつきこめたものであるといい、僧をその塚へ案内し、夫婦とも塚の内へ消え失せた。
僧はねんごろに回向していると、ふたたび夫婦の亡霊が現れ、女は内ではたを織り、男は夜ごとに錦木を立てつづけ、三年たって今宵こそ逢わんと喜びの舞を舞う景色であったが、やがて夜の明けるとともに僧の夢はさめてしまった。(宝生流旅の友より)

錦木塚、涙川  秋田県鹿角市  (平5・10記)

平成4年10月、札幌で開催されたクラス会に出席の途次立ち寄った。十和田南駅から歩いて数分、緑に囲まれた小さな公園の一角に「錦木塚」、狭布の里の文字も刻まれた「錦木塚」の碑がある。幅数メートルもある「錦木塚の由来」なる説明文にその由来を語ってもらおう。

「  錦木塚の由来
今から1550年前(仲哀天皇の2年)、旧十和田町、この付近一帯を狭布の里と呼ばれていた。このころ朝廷では、郡司として狭名の(さな)の大夫(きみ)を派(つかわ)し、政治にあたらせたが、狭名の大夫から八代目に、狭名の大海(おおみ)という人の娘に政子と呼ぶ美しい乙女がおりました。
政子は綺麗でやさしい娘で、付近の娘達に織りものを教えておりました。織りものは狭布(けふ)の細布(ほそぬの)と呼ばれ、その巾は約六寸程、長さは十八尺、または三十三尺ともいわれ、これを宮廷への貢に納めたものといわれています。
この頃、村の南の方にある五の宮という山から大きな鷲が飛んで来ては、部落の乳児をさらってゆくのでした。鷲に子供をさらわれた親の悲しみ、村の悲しみの声は部落にあふれ、村人たちはただ悲しみの涙を流しているのでした。
これを防ぐには、白鳥の毛を織物にまぜて織り、その織物で着物をつくり、子供に着せると鷲がそばにこなくなることを旅の僧から聞いて政子は苦心しながら、部落の人に教えました。
この部落から二里程(八キロM)離れた東の方に大湯草木という部落があり、そこに住む若者が政子の美しい姿に心をうたれ、そして恋するようになりました。その頃はまだこのあたりに文字がなく、心に思う女があれば、その女の家の入口に木の枝の美しいもの(錦木、櫻、もみじ等)を三、四本に束ねたものをたてたものだと伝えられます。いまのラブレターという訳でしょうか。男のたてる束が千束になれば、男の心通りになる習慣だったといわれます。若者は二里の道を遠しともせず、毎夜政子の家の入口に、その木の束ねたものをたて続けました。
政子の家にたてられる木の束は増えていくのですが、政子はこれを容れようとしませんでした。若者は、毎夜政子の家のあたりにたたずみ、胸をかきむしられる思いをいだき、夜明け方とぼとぼと家路につくのでした。
政子はとうとう若者の純情と熱意にうごかされ、その木を家の中に入れようとしたが、父大海は、由緒ある家柄であるとの理由で、農人との結婚は許されなかった。
政子の門口に木の束をたてそめてから九百九十九夜、若者は遂に病の床にふし、そのまま失恋のうちに死亡したのです。若者死せりと聞いた政子もまた純情の心に痛手をうけたものか、間もなく若者のあとを追うように、悲しくも亡くなりました。推古天皇の七年九月十三日のことといわれます。
政子の父、大海ははじめて人の情にうたれ、若者の骸を請いうけて政子と木の束を一処にし、厚く葬りました。村の人達は、この世で一緒になれなかった若者達のため、塚のそばに銀杏と杉の木を植えて供養したといわれている。

    錦木は たてながらこそ 朽ちにけれ
            狭布の細布 胸あわじとや
                        能 因 法 師
    思いかね 今日たちそむる 錦木の
            千束にたらで あうよしもがな
                        大 江 国 房
    いまもなお 錦木塚の 大銀杏
              月よき夜なは 夜なよなに
                          石 川 啄 木    」

錦木塚旧 錦木塚 秋田県鹿角市 (平4.10)

錦木塚 錦木塚の碑 鹿角市 (平4.10)

この塚の近くに、その昔若者が毎朝涙を洗って帰ったという「涙川」があるというので訪ねてみた。最初は気がつかずに通りすぎてしまったが、土地の人に教えてもらい引き返した。広い田んぼの中の細い流れである。若者の涙を思わせる清い水が勢よく流れていた。
周囲の田畑や山々は、若者が毎夜通った頃とあまり変わってはいないようだが、近くには鉄道の線路が通り、道路には車が行き交い、川の彼方には東北高速道路も姿を見せていた。

涙川 涙川 鹿角市 (平4.10)

(補足 平10・8記)
平成6年6月、教授嘱託会の名所めぐりに参加して再びここを訪ねたが、このあたりが「錦木塚伝説公園」として見違えるように整備されているのには驚いた。塚の周囲は近代的な石塀で囲まれ、大きな門をくぐらないと中に入れない。錦木塚も新しい石の柵が巡らされ、塚には注連縄まで張られている。新しく造られた庭園には錦木が植えられ、公園の中には展示館まで出来ていた。展示館の中には「錦木の束」の見本まで陳列されている。
まことに結構なことと言うべきかも知れないが、あまりに観光化されてきたようで無条件で喜べない心境である。

錦木塚公園 錦木塚伝説公園 秋田県鹿角市 (平6.5)

錦木塚新 錦木塚(新) 秋田県鹿角市 (平6.5)

錦木束 錦木の束見本 錦木塚伝説公園展示館内 (平6.5)


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