皇子池

謡蹟めぐり  花筐 はながたみ

ストーリー

越前の国味真野にいた男大迹(おおあとめ)皇子は、皇位継承のため急に都へ上ることとなり、日頃そばにおいて寵愛していた照日の前のもとへ別れの文と花筐を届けさせます。 照日の前は形見の花筐を抱いて悲しく我が家へと帰ります。
即位して継体天皇となり、大和の玉穂を都と定めた帝は、警護の官人たちに守られて紅葉狩に出かけました。すると、その道筋に侍女に花籠を持たせた狂女が来かかります。実は彼女は、帝への恋慕のあまり物狂となった照日の前なのです。
そうとは知らぬ官人が見苦しいと言って籠を打ち落とすと、女はこれは帝の花筐だといってとがめ、恋の叶わぬ悲しみを嘆きます。帝の仰せにより彼女は続けて李夫人の故事を謡いつつ狂い舞います。やがて帝は彼女が照日の前であることに気がつき、正気に戻った彼女を再びそばにおくことにして、ともに皇居へと連れて帰ります。(宝生の能、平成9年11月号より)

継体天皇即位の経緯   (平10・5記)

越前の国にいた男大迹皇子が勅使に迎えられて、日頃寵愛していた照日の前に挨拶する暇もなく玉章(たまづさ)と花筐を残して上洛し、継体天皇として皇位を継いだというのはなんとも不自然なことである。歴史の書物を二、三あたってみた。

日本書紀では「継体天皇の前の武烈天皇に子がなかったので、応神天皇五代の御末として男大迹皇子を越前の国から迎え継体天皇とした」としている。しかし、岩波文庫「日本書紀」の編者も、一般に記紀は天皇の世系についてはその歴代の名を克明に挙げる例であるのに、継体天皇に関してのみ単に五世とだけ書いて、中間の歴代の名を省略しているのは異例であるとし、継体天皇を皇親に仕立てるために作られたものとしている。

中公新書の「日本歴史」1では「記紀はまた、応神王朝の第二世、仁徳天皇を徳の高い天皇とし、最後の武烈天皇はひどい暴君として描いているが、それは応神王朝が武烈天皇で絶えたことをあらわしているのであって、当時、大和政権で最大の権力を握っていた大伴金村は、前王朝とは血縁関係のない継体天皇を擁立したのであろう。と。

直木孝次郎氏は、さらに一歩を進めて、継体天皇は越前の豪族であり、武烈天皇の死後、大和朝廷に分裂がおこり、朝廷の支配を維持していくことができず、各地に動揺が生じたが、このとき、継体天皇は応神五世の子孫と称して興起し、近江・尾張を固めながら河内・山背に進出し、ついに大和に突入し、磐余玉穂に入って皇位についたのではないかとした。」と述べている。

このように見てくると、継体は武烈天皇の死去後、大和王権が混乱しはじめたのをみてとり、近江・越前の兵を率いて武力による王権奪取に動き始め、二十年を経てその目的を達成したと見るのが自然のようである。
日本書紀では「万世一系」を強調するため皇位の平和的禅譲を行われたように記述したのであろうが、皇位継承は必ずしも平和的に行われたのではないと見るのが真実に近いようである。

味真野神社、味真野苑、「花がたみ」の絵
         福井県武生市余川町 (平10・5記)

このあたりが本曲の舞台で、味真野神社の境内には継体天皇御宮跡の碑が立ち、男大迹皇子の住居跡とされる。また神社の前には大きな「謡曲花筐発祥の地」の石碑もあり、傍らにその由来が次のように記されている。

味真野神社 味真野神社 (平.10)

御宮跡碑 継体天皇御宮跡の碑 (平6.11)

「 ここは人皇第二十六代継体天皇がまだ男大迹王と申された頃鞍谷御所を営み潜龍されたという聖地伝承の地である。
謡曲花筐に天皇がこの地を即位のため都に上られた頃の人情味豊かで詩的一??を遠く鎌倉時代に於いて斯界の巨匠世阿弥によって作曲修辞佳麗世に名作とうたわれている。
本会は天皇一千四百五十年祭を記念し碑石を美濃の恵那に求め揮毫を時の良 二千石中川平太夫先生に仰ぎ聖蹟を千歳に顕彰するものである。
   昭和五十四年一月吉日   味真野花筐会会長
                帰山???文  帰山???書  」

花筐発祥地碑 謡曲花筐発祥之地碑 味真野神社境内 (平7.5)

神社の隣は「味真野苑」として整備され、池や築山を配し、四季の花にまじって、万葉集に残る中臣宅守と狭野茅上娘子との恋愛贈答歌の相聞歌碑や、比翼の丘、連理の松などがあり見る人を飽きさせない。
花筐の関係としては、苑の中央に位置する郷土資料館に上村松園の「花がたみ」の絵の写真複製が掲げられている。その妖しげな眼に魅せられて絵の前に暫く立ち止まってしまった。
この絵を見るまで上村松園のことはあまり知らなかったが、その後、展覧会を見たり画集を求めたりして「序の舞」(記念切手に採用)の作者であることや、この「花がたみ」のほかに、「草紙洗小町」「砧」「楊貴妃」など謡曲に関係ある作品も多数あることを知った。
上村松園は女性として初の文化勲章を受章された方で、昭和24年74歳で亡くなられた。次の彼女の言葉には感銘を受けた。

「 一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ私の念願である。その絵を見ていると邪念の起こらない、またよこしまな心を持っている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる・・といった絵こそ私の願うところのものである。」

「花がたみ」の絵には次のような言葉が添えられている。

「 花がたみは謡曲の「花がたみ」から取材したもので、大正4年、文展に出品したものでございます。狂女を描くのですから、本当の狂人をよく観たいものと思い、岩倉精神病院へ、二、三度見学にまいったものでした。院長に案内されて病棟を歩きますと、千差万別の狂態が見られました。夏のことで、私は薄い繻珍の帯をしめておりましたが、繻珍の帯が光ったのか、一人の狂女が走りよって、「奇麗な帯をしめてはる」と、手を触れて見ておりました。一室には、もと、相当なお店のお内儀さんだったという品のよい女がおりました。舞を舞うというのが好きと見えて、始終、何やら舞うていると聞きましたので、私が謡をうたってみますと本当に舞いはじめました。男女のさまざまな狂態を見まして、これは一種の天国だと思いました。挨拶、応答など、聞いておりますと、これでも狂人かしらと思われるほど常人と変わらない人も、目を見るとすぐ解りました。 」

狂女絵 上村松園 花がたみ

花筐公園、皇子池 福井県今立町粟田部  (平10・5記)

武生市に隣接する今立町の花筐公園は男大迹皇子生誕の地、また都への出発地と言われ、公園の丘の下に皇子池がある。男大迹皇子生誕の池とも、安閑・宣化両帝の産湯の池とも伝える。

皇子池 皇子池 (平6.11)

公園内には宝生流十七世宝生九郎家元の筆による「花筐ゆかりの地」碑がある。昭和30年1月の建立で、台石は、御大典記念の大砲が台の上にあったが、戦時中供出し台のみ残っていたものの由である。
近くには越前福井16代藩主松平慶永(春岳)公の直系松平永芳(靖国神社宮司)が書いた「名勝花筐公園」の碑が建っている。昭和41年4月の建立で、碑石は福井城本丸の石で花筐公園保勝会が建てたものである。
ここから少し離れるが公園内には継体天皇を祀る岡太神社がある。

ゆかりの地碑 花筐ゆかりの地碑 (平6.11)

花筐公園碑 名勝花筐公園の碑 (平6.11)

岡太神社 岡太神社 花筐公園 (平6.11)

継体天皇石像  福井市足羽山公園 (平10・5記)

福井市の足羽山公園に継体天皇の大きな石像が建っている。この地に治水や産業振興の功績を慕って明治16年建立されたが、昭和23年に震災で倒壊したのを修復再建したものの由である。傍らに説明が刻まれているので紹介する。

「 継体天皇は御名を男大迹皇子と称し、御即位に至るまで数十年間当国越前に潜龍ましましたが、その間越前平野の治水を講じ、笏谷山の石材採掘を勧めるなど、民治に深く意を用いられたので、国人長くその御事績を景仰している。この石像は天皇の遺徳を追慕し、明治十六年福井地方の石匠島田宮崎谷屋藤間林内等相謀り之を建立したもので、石材は天皇に所縁のある笏谷石を用い、石像の向は之亦天皇が治水に際して水門を開かれしと伝えられる北北西の三国港を遙かに望んでいる。爾来この山頂に存立して常に市民に親しみ敬われて来たが、昭和二十三年の大震災によって倒壊したの修復再建したのである。
     昭和二十七年十一月  福井市  」

継体石像 継体天皇像 (平2.10)

継体天皇御陵  茨木市太田 (平10.5記)

継体天皇の御稜は大阪府茨木市にある。しかし、大阪府高槻市の今城塚古墳が真稜であるとする説もあるが、ここへはまだ訪ねていない。

継体天皇陵 継体天皇御陵 茨木市 (平3.9)


−ニュース−

曲目一覧

サイトMENU

Copyright (C) 謡蹟めぐり All Rights Reserved.