鶴岡八幡宮

謡蹟めぐり  七騎落6 その他1

その他の頼朝関係謡蹟 (平8・4記)

以上、頼朝出生から鎌倉に入るまでを概観してきたが、鎌倉に入ってから死歿するまで20年近くの伝説古蹟は沢山あるようだ。私の訪ねたもののみを掲げてみる。

元八幡、鶴岡八幡宮、白旗神社 鎌倉市

源頼義が前九年の役の後石清水八幡を勧請したのが鶴岡八幡の起源という。材木座にある元八幡がこれである。頼朝はこれを今の場所に社殿を建立して移した。社殿の下には静御前が舞ったという舞殿があり、石段の左には実朝暗殺のため公暁が身をかくした大銀杏が見える。境内には頼朝と実朝を祀る白旗神社がある。

鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮 鎌倉市 (平6.12)

元八幡 元八幡 鎌倉市材木座 (平6.12)

白旗神社八幡内 白旗神社 鶴岡八幡宮 (平6.12)

白旗神社、法華堂跡の碑、大蔵幕府旧跡の碑  鎌倉市

八幡宮境内の白旗神社と同名の神社が西御門の頼朝の墓の下にある。由緒によるとこの地はもと頼朝公の居舘(幕府)の北隅で持仏堂がり、石橋山の合戦にあたって髷の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され、頼朝公が篤く信仰していた。頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣した。明治維新に際し寺は白旗神社に改められ、頼朝公を祭神として今日に至っている。
同じ場所には法華堂跡の碑が建っている。碑には
「 健保5年5月、和田義盛叛して火を幕府に放てる時、将軍実朝の難を避けたるはこの処なり。宝治元年6月5日三浦泰村ここに籠りて北条の軍を迎え、刀折れ矢尽きて一族郎党500余人とともに自刃し満庭朱殷に染めし処とす 」と刻まれている。
また、大蔵幕府旧跡の碑もあり、頼朝がここに幕府を開いてから、頼家、実朝を経て政子が亡くなるまで46年間に亘って、この地が幕府の中心であったことを記している。

白旗神社西御門 白旗神社 鎌倉市西御門 (平6.12)

法華堂跡 法華堂跡の碑 鎌倉市西御門 (平3.5)

大蔵幕府旧蹟 大蔵幕府旧蹟の碑 鎌倉市西御門 (平6.12)

段葛(だんかづら)、鎌倉大仏、永福(ようふく)寺=二階堂跡  鎌倉市

鶴岡八幡宮の二の鳥居から社殿まで参道中央が高く築かれているのは、段葛と言って、頼家懐妊中の政子の安産を祈って頼朝自身が監督し、有力な御家人たちもみずから土や石を運んでつくり上げたものである。
鎌倉の大仏は頼朝が奈良の東大寺大仏供養に詣でた時、鎌倉にも建造しようとしたが、果たさぬうちに歿したので、政子が八丈の木像を作り、後に金銅に改鋳したという。
永福寺は頼朝が建立した三大寺院(鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺)の一つで、奥州合戦の際に平泉の地で見聞した中尊寺、毛越寺、無量光院などの精舎の荘厳さに感激し、義経・泰衡を始め合戦で死んだ幾千もの将兵の鎮魂のために建立された。堂は左右対称に配置され、二階堂を中心に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂の両脇堂が配され、東を正面にした、全長が南北130メートルに及ぶ伽藍で、前面には南北200メートル以上ある池が造られていた。鎌倉には珍しい瓦ぶきの二階の本堂が有名になって、ついに二階堂という地名まで生まれた。現在は国指定の指定史跡とされている。

段葛 段葛(だんかづら) 鎌倉市雪ノ下 (平6.12)

鎌倉大仏 鎌倉大仏 鎌倉市長谷 (平6.12)

永福寺跡 永福(ようふく)寺=二階堂跡  鎌倉市二階堂 (平8.2)

頼朝の墓、宝戒寺、北条執権邸旧跡碑  鎌倉市

頼朝は相模川の橋供養にのぞみ、帰途、落馬したのが原因で正治元年(1199)正月、53歳でこの世を去った。鶴岡八幡宮の東、大倉山の中腹、もとの頼朝の舘のうしろ正面に頼朝の墓がたっている。注意してみると、薩摩の大名島津家の紋のクツワ十字が入っていることからわかるように、現在の墓石は江戸時代の中ごろ、島津氏が建てたものである。将軍徳川氏がにせ系図によって清和源氏の嫡流と主張したように、この西南雄藩は始祖島津忠久を頼朝の落胤と称し、ひそかにこれと対抗したのであった。この頼朝の墓は、そのデモンストレーションにほかならなかった。
頼朝の墓から少し離れた小町には宝戒寺がある。ここは頼朝から政権を奪った北条氏が義時以後代々の執権の邸があった処である。足利尊氏が北条一門の霊を弔うため、北条氏の菩提寺東勝寺をここに移して宝戒寺と改めた。寺には源義朝、鎌田正清の墓もあると聞いて訪ねてみたが、見つけることはできなかった。

頼朝の墓 頼朝の墓 鎌倉市西御門 (平3.5)

宝戒寺 宝戒寺 鎌倉市小町 (平6.12)

北条執権邸跡 北条執権邸旧蹟碑 宝戒寺 (平6.12)

見桃寺、桜の御所跡、松本たかしの墓と歌碑、椿の御所跡  三浦市

建久の昔(1190年代)時の将軍頼朝は風光のすぐれた三浦市に三つの御所を設けた。桜、桃、椿の御所がこれである。頼朝はここで将兵と花見を楽しんだといわれ、酒宴を催した所は今でも歌舞島の名を残している。
本瑞寺は桜の御所跡であるが、この境内で思いがけなく、能役者松本長先生の長男松本たかし氏の墓と歌碑を見ることができた。松本たかし氏は幼時から父について能を習いかつ宝生九郎先生の薫陶を受けたが、15歳のとき健康を害してから俳句に志をたて、正岡子規を尊び、高浜虚子に師事した方である。生涯の作句三千、写生の正確と天稟の豊麗とを渾然と発揚し、人々これを珠玉としたという。生前三浦三崎の風光を愛していたためこの地に葬ったという。墓前には松本恵雄先生の卒塔婆が供えられていた。
大椿寺は椿の御所跡である。

見桃寺 見桃寺(桃の御所跡) 三浦市白石町 (平6.12)

本瑞寺 本瑞寺(桜の御所跡) 三浦市三崎 (平6.12)

松本たかし墓 松本たかしの墓と歌碑 本瑞寺 (平6.12)

大椿寺 大椿寺(椿の御所跡) 三浦市向ヶ崎町 (平6.12)

江の島神社、頼朝寄進の鳥居  藤沢市

頼朝は政治の方策としての信仰を大きく取り上げ、各地に社寺伽藍を創建したが、その一つとして江の島神社にも数度にわたって参詣、参籠している。文覚上人に命じて弁財天を勧請し、鳥居を奉納し楽器を納めたと文献に残されているが、奥津宮にある鳥居が頼朝寄進のものとされている。

江の島神社 江の島神社 藤沢市江の島 (平6.12)

頼朝寄進の鳥居 頼朝寄進の鳥居 藤沢市江の島 (平6.12)


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