北国から上って来た旅の僧が、都千本辺りで暮色を眺めているうち、俄かに時雨が降ってきたので、雨宿りをしていると、そこに一人の若い女が現れ、ここは歌人藤原定家が建てた時雨の亭(ちん)だと教えます。女は昔を懐かしむかに見え、定家の歌を詠み、僧を式子内親王の墓に案内します。
もと賀茂の斎院だった内親王は、定家と人目を忍ぶ深い契りを結ばれましたが、世間に漏れたため、逢うことが出来ないまま亡くなりました。それ以来定家の執心が、葛となって内親王の墓にまといつき、内親王の魂もまた安まることがなかったと女は物語り、自分こそが式子内親王である、どうかこの苦から救いたまえと言って失せます。
その夜、僧が読経して弔うと、内親王の霊が墓の中から現れ、法の力によって成仏したことを喜び、報恩のためと舞を舞います。やがてもとの墓の中に帰り、再び定家葛にまといつかれて姿を消します。(「宝生の能」平成11年10月号より)
定家は鎌倉前期の歌人。京極中納言などと呼ばれた。俊成の子。新古今集や百人一首の撰者としても知られる。
式子内親王の歌で百人一首に選ばれているのは次の歌である。
玉の緒よ絶えなば絶えね 長らえば忍ぶることの弱りもぞする
謡曲では定家はこの式子内親王に許されぬ恋を抱くのであるが、最近の研究では式子内親王の秘めた思い人は定家ではなく、法然上人だったという説が浮上しているようである。
常寂光寺は定家の山荘のあった所と伝え、境内には石碑が立っている。一面には「藤原定家山荘趾」他の一面には「小倉百人一首編纂之地」と刻まれている。
もう一つは定家の歌碑で
小倉山 峯のもみじ葉こころあらば いまひとたびの御幸(みゆき)またなん
の歌と、「定家山荘跡」と刻まれている。
裏山には歌仙祠があり、定家や家隆、徳川家康の木像があるという。また時雨亭址の碑もある。
常寂光寺 京都市右京区小倉山町 (平10.3)
定家山荘趾、百人一首編纂之地碑 常寂光院 (平10.3)
定家歌碑 常寂光寺 (平10.3)
時雨亭址碑 常寂光寺 (平10.3)
歌仙祠 常寂光寺 (平10.3)
常寂光寺近くの二尊院にも時雨亭跡の碑があり、百人一首撰定の地といわれる。境内には「藤原 定家卿七百年祭記念」の立派な石碑が建っており、また軒端の松の傍らには定家の「軒端の松」という題で次の歌を記した立札が立っている。
しのばれむものともなしに小倉山
軒端の松に慣れて久しき 藤原定家
近くの厭離庵にも時雨の亭がある由であるが、拝観謝絶のため確認することは出来なかった。
二尊院 京都市右京区嵯峨 (平10.3)
時雨亭跡碑 二尊院 (平10.3)
藤原定家卿七百年祭記念碑 二尊院 (平10.3)
軒端の松と歌の立札 二尊院 (平10.3)
厭離庵 京都市右京区嵯峨 (平10.3)
上京区相国寺門前町の相国の墓地に立派な定家の墓があり、また上京区花車町の釘抜地蔵(石像寺)にも定家の墓がる。
定家の墓 相国寺 京都市上京区 相国寺門前町 (平5.9)
定家の墓(中央) 釘抜地蔵(石像寺) 京都市上京区千本通上立売上ル (平5.9)
石像寺から程近い今出川千本の般舟院稜に式子内親王の墓があると聞いて訪ねたが、中に入ることが出来ず、お墓の写真を掲げることが出来ぬのは残念である。
般舟院稜入口 京都市上京区今出川千本 (平5.9)
中京区二条寺町に「藤原定家京極邸址」の石碑が立っている。
藤原定家京極邸址の碑 京都市中京区二条寺町 (平41.4)
百人一首に定家の歌として「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に、焼くや藻塩の身も焦れつつ」の和歌が有名であるが、松帆の浦は淡路島の北端の海岸で、明石大橋の眺めが美しい。この海岸に歌碑が立っている。
松帆の浦 兵庫県淡路町 (平12.9)
定家歌碑 松帆の浦 (平12.9)