花月座り石

謡蹟めぐり  花月 かげつ

ストーリー

九州彦山の麓に住む者の子供が七歳の時に行方不明となってしまったので、その父は僧となり、我が子を求めて諸国を行脚します。
都の清水寺を詣でた時、来あわせた門前の男に案内を頼むと、花月という喝食(かつしき)が面白く狂うことを教え花月を呼び出します。花月は勧められるままに恋の小歌を歌い戯れ、鶯が枝を飛び交って花を散らすのを弓矢で狙い、また清水寺の縁起を曲舞(くせまい)で舞ってみせるなどして見物人を大いに喜ばせます。
先程からじっと花月を見ていた旅僧は、これこそ行方を尋ねる我が子ではないかと思い、さまざまの質問をし、自分は父だと名乗ります。花月は父との再会を喜び、門前の男の所望にまかせ鞨鼓を打って、天狗にさらわれてからの身の上話を謡います。そしてこれからは父と共に仏道修行に出ようと、立ち去って行きます。(「宝生の能」平成11年3月号より)

舞台 清水寺 「花月」と「田村」  (平成2・10記)

来年6月、渡雲会の春季例会で能「田村」を演ずることとなり、文句を暗記中であり、一方、本年11月の青葉会で「花月」の地頭を割り当てられているので、改めてこの曲に目を通して見たが、両方とも舞台は清水寺。似たような言葉が沢山出てくるので、面白半分に両者を比較してみた。
先ず「花月」のサシとクセの前半を書き、その次に「田村」の中から似ている文句を掲げてみた。

(さればにや大慈大悲の春の花。十悪の里にかうばしく。三十三身の秋の月。五濁の水に影清し。) 「花月」
(さればにや大慈大悲の春の花。十悪の里に芳ばしく。三十三身の秋の月。五濁の水に影清し。) 「田村」

(そもそも此寺は。坂の上の田村丸。大同二年の春のころ。草創ありしこのかた。) 「花月」
(そもそも当寺清水寺と申すは。大同二年の御草創。坂の上の田村丸の御願なり。) 「田村」

(今も音羽山。嶺の下枝の滴りに。濁るともなき清水の。流れを誰か汲まざらん。) 「花月」
(今もその名に流れたる清水の。深き誓ひもかずかずに。) 「田村」

(ある時此瀧の水。五色に見えて落ちければ。それを怪しめ山に入り。其水上を尋ぬるに。) 「花月」
(或時木津川の川上より。金色の光さししを。尋ね上って見れば一人の老翁あり。) 「田村」

清水寺はこの「花月」「田村」のほかにも、「熊野」「盛久」など多くの曲にとりあげられており、私どもには大変親しみのある寺である。
桜の頃、この寺の地主権現を訪ね、白妙に雲も霞も埋もれた山なみや名所を眺め、「春宵一刻價千金、花に清香月に影」を実感してきたいものである。

清水寺     (平7・2記)

本曲の舞台である。何回か参詣したことがあるが、謡蹟と意識してこの寺を訪ねたのは、能「田村」を演ずることとなって、関連の謡蹟を巡った平成3年4月が最初である。前述のとおり、曲中にある「春宵一刻價千金」の気分を実感したくて、満開となる頃を推定して4月2日を中心にホテルを予約しておいたのだが、結果的には少し早かったようだ。
それでも日中に三分咲きの花を愛でながら境内を散策し、宵闇せまる頃再び訪ねて、一刻値千金の夜景を楽しんできた。残念ながら月が登るまで境内にいることは出来なかったような気がする。
「田村」の時は「田村堂」とか「地主の桜」とか清水寺の中でも比較的場所が限定されているが、「花月」の場合は、曲中に「音羽山」「此の瀧の水」とある程度で、どのへんで花月が舞っていたのか、また父と子が再会したのかはっきりしない。
ここでは、宵闇迫る頃の清水寺、朱塗りの色鮮やかな三重の塔、音羽の滝の写真を掲げることとする。
平成5年11月、紅葉の京都を訪ねて、東福寺、高尾、永観堂などの紅葉を満喫したが、その際、始めて清水寺のライトアップがあるというので、夜になって出かけてみた。夜空に映し出される大伽藍と紅葉、桜の頃とまた一味違った風情である。残念ながら私のカメラでは夜の雰囲気は写し出せないので掲載は遠慮させていただく。

清水寺夕方 清水寺 京都市東山区清水 (平3.4) 宵闇せまる頃撮したもの

清水寺三重塔 清水寺三重の塔 清水寺 (平3.4) 朱塗りの色が鮮やかである

音羽の瀧 音羽の滝 清水寺 (平3.4) 三つの筧から流れ落ちる滝は万病に効くという

英彦山・英彦山神宮 (平7・2記)

ワキが「是は筑紫彦山の麓に住居する僧にて候」というように、花月父子はこの彦山(現在の英彦山)の麓に住んでいた。ところがある日、子供の花月が天狗にさらわれて行方不明になったため、父は出家して僧となり、子供を尋ねて都に上り清水寺に着くのであるから、本曲にとっては大切な謡蹟である。
英彦山は福岡、大分の両県の県境にそびえる北九州の最高峰である。その山麓に英彦山神宮があり、花月父子の住居もこの近くにあったという。

神宮の御由緒には次のように記されている。
「 古来より神の山として信仰されてきた霊山で、日の神と崇められる天照大神の御子天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を祀っていることから、「日の子の山」、即ち「日子山」と呼ばれた。嵯峨天皇の弘仁10年(819年)、詔(みことのり)になり「日子」を「彦」に改められ、霊元天皇の享保14年(1729年)、院宣により「英」の字を賜わり「英彦山」と改称された。
古来よりの信仰に、渡来仏教や道教が習合され修験道の霊山「英彦山大権現」と呼ばれ栄え、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和50年6月24日、戦後、全国第三番目の「神宮」に改称、現在、「英彦山神宮」となっています。   」

神社の中心は奉幣殿で山の中腹に位置するが、ここに行くには普通銅の鳥居から長く急な石段を登るのだそうであるが、今はタクシーで上まで行けるとのことなので歩くのは勘弁していただいた。訪ねたのは平成3年10月、ちょうど九州地方を猛烈な台風が襲った直後だったので、大きな樹木が無数に倒れており、奉幣殿は無事のようだったが、近くの建物は無残にも倒壊していた。
奉幣殿のすぐ下のあたりに「花月座り石」があるというので行ってみる。ここで腰かけていた時花月が天狗にさらわれたという。花月気取りでこの石に腰かけ写真を1枚撮ってもらった。

<追記 平13・6記> 名所めぐりの想い出

教授嘱託会で名所めぐりの担当をしていた頃、平成8年に北九州が候補地となった。その時に私は北九州市や福岡市からだいぶ遠くなるが、自分の経験からこの「英彦山」と「綾鼓の舞台、朝倉町」を入れるよう推薦した。幸いコースに組み込まれたが、正直言ってお年寄りが大半の90名もの団体、この英彦山神宮の数百段もある急な石段をどれだけの方が昇れるか心配だった。タクシーなら本殿の近くまで行けるが、大型バス2台では途中までしか行かれない。どうしても歩かざるを得ないのである。決して無理しないように周知していたが、結果は足の悪い2,3名の方を除いて殆ど全員の方が石段を上り、途中の花月の座り石なども見て本殿に参拝することが出来た。
苦労したけれども、印象は強かったようで、多くの方々から「良かった」の言葉をいただいたのが何より嬉しかった。

英彦山神宮銅の鳥居 英彦山神宮銅の鳥居 福岡県添田町英彦山 (平3.10) 花月父子はこの英彦山の麓に住んでいた

英彦山神宮奉幣殿 英彦神宮奉幣殿 英彦山神宮 (平3.10) 神宮の中心がこの奉幣殿である

花月座り石 花月座り石 英彦山神宮 (平3.10) 花月はこの石に腰かけていたとき天狗にさらわれた 

花月が巡り廻った山々 (平13・6記)

「更科越路の月雪」から羯鼓の舞に入り、これが終わると「とられて行きし山々」と山の名が沢山でてくる。
「筑紫の彦山」「四王寺」「讃岐には松山」「白峯」「伯耆の大山」「丹後丹波の境の鬼が城」「愛宕山」「比良の峯」「比叡山」「横川」「葛城山」「高間山」「大峯」「釈迦嶽」「富士山」と沢山の地名が出てくるが、私の訪ねた関係のありそうな所の写真を掲げてみる。

さらしなの里 更科の里 長野県戸倉町羽尾 (平5.8) 姨捨山の北麓にひろがる里で、伝説と田毎の月で知られる

越路の雪 越路の雪 新潟県小出町 私の郷里の雪景色を掲げた。

松山城 松山城 松山市 (平6.9) 松山という山がよく分らないので松山城を掲げた

白峰宮 白峰宮 香川県坂出市西庄町 天皇寺 (平13.3) 崇徳上皇の霊を慰めるために建てられた

大山 伯耆の大山 鳥取県 (昭63.9) 表は美しい姿で知られるが、裏側は荒々しい岩肌である

大江山のモニュメント 大江山と鬼のモニュメント 京都府大江町 (平5.9) 頼光の鬼退治で知られる。「大江山」参照

愛宕山 愛宕山 京都市左京区愛宕 (平5.11) 嵐山パークウエイから眺めた愛宕山である

比良の峰 比良の峯 滋賀県 (平10.4) 湖西線の車中より撮影

比叡山根本中堂 比叡山 大津市坂本 (平10.4) 根本中堂付近

横川中堂 横川 大津市坂本 (平10.4) 比叡山北方。横川中堂を掲げる

葛城山頂 葛城山 奈良県御所市 (平8.9) 「葛城」の舞台

富士山 富士山 静岡県、山梨県 (平6.9) 上空からの写真を選んだ 

まだ訪ねていないところは、場所だけを記しておく。
「四王寺」・・太宰府の近く。
「高間山」・・金剛山。奈良県御所市。
「大 峯」・・奈良県天川村。
「釈迦嶽」・・奈良県下北山村、十津川村。


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