此奥俊寛山荘碑

謡蹟めぐり  俊寛1 しゅんかん

ストーリー

京の都ではこの度、中宮の御安産を祈願した大祓があり、平家覆滅の陰謀罪によって鬼界ヶ島に流されている丹波少将成経、平判官入道泰頼のもとへ赦免使が派遣されます。
さて、絶海の孤島鬼界ヶ島では成経と康頼が島に勧請した熊野三社に今日も参詣しています。同じ流され人の俊寛も、谷の水を汲んで酒とみなし、三人で酌み交わしては互いに昔を想い起こして今の境涯を嘆き合います。
そこへ、都からの使者が到着します。三人は夢かとばかり喜びますが赦免状には三人のうち俊寛の名だけがありません。俊寛は筆者の誤りかと疑いますが赦免使から俊寛一人を残せとの事だと告げられただ慟哭するばかりです。やがて船は二人を乗せて出発しようとします。俊寛は纜にすがりついて必死で乗船を願いますが舟人はそれを振切って船を出し俊寛の嘆きを残して遠ざかってゆきます。(「宝生の能」平成12年8、9月号より)

本曲の舞台 硫黄島 鹿児島県   (平15・3記)

長年訪ねたいと願いながらもまで硫黄島を訪ねていない。
しかし教授嘱託会の大先輩で元理事長の針生武巳さんが、平成9年4月に硫黄島を訪ねたというので、その時の写真を頂戴していたことを思い出した。針生さんは今年はたしか98歳になられた筈だから、この島に行かれたのは92歳の時と思うが、流石に単独では不安で娘夫婦にご一緒願った由。私は現在78歳、まだまだ硫黄島行きを諦めた訳ではないが、実現までには少し時間がかかりそうなので、今回は針生さんの写真やお手紙、島の案内図によって硫黄島の謡蹟を紹介させていただく。

針生さんは近畿ツーリストの「屋久島と硫黄島」のツアーに参加、一行18名限定の由であるが、謡曲関係者は針生さんただ一人、夕食のテーブルでは俊寛の話をした後、「俊寛」のキリ、「時刻移りた叶うまじ・・終り」までを謡い皆さんをおどろかせたとのこと。島の人口は150人、旅館は1軒だけで、交通はマイクロバスに頼るだけ。

港近くの島の中心地には熊野神社がある。康頼、成経が「三熊野」に見立てて小社をつくり、毎日参詣したあとに小社を造営したものだが、今では島の中心的神社となっており、祭も盛大に行われている由。黒島、硫黄島、竹島三島で「三島村」を構成、その中心の島がこの島という。三島の守護神となっている由。
案内図によるとその近くに安徳天皇稜がある。安徳天皇は壇ノ浦で二位の尼に抱かれて入水したとなっているが、事実は替え玉でこの島に逃げのび66歳で亡くなりここに葬られたという。

俊寛堂は舗装道路から四、五十米の小路を入ったやぶの中にあり、そこに行くこ道は竹藪を切り開いたようで、苔の道となっておりまことに風情がある。このあたりに流人三人が庵を結んだと伝えられている。堂は比較的新しく最近復元されたもののようである。俊寛堂内部には俊寛、康頼、成経のため三ケの石墓が祀ってある。

堂から少し離れたところに涙石がある。一人残された俊寛が毎日迎えの舟がこないかとこの石の上に座って涙を流していたところという。ここから薩摩半島が遠望される。
そのほか絶壁の下で近づけないが足摺石がある。別れの時私も私もとだだをこねてたので、岩に足跡のくぼみが出来たものという。

熊野神社 熊野神社 鹿児島県硫黄島 (平9.4針生氏提供)

俊寛堂 俊寛堂 鹿児島県硫黄島 (平9.4針生氏提供)

俊寛堂内部 俊寛堂内部 鹿児島県硫黄島 (平9.4針生氏提供)

涙石と針生氏 涙石と針生氏 鹿児島県硫黄島 (平9.4針生氏提供)

まだ訪ねていない硫黄島に興味をひかれてインターネットで調べてみた。すると俊寛が流された島はここだと名乗りをあげている島が、この硫黄島のはかに「喜界島」と長崎市近くの「伊王島」の二つがあるとのこと。どちらにも俊寛の墓がある由。機会を作り是非訪ねてみたいものである。

京都の「俊寛」関係謡蹟      (平8・5記)

法勝寺九重塔址の碑、法勝寺推定復原図、「白河院址」の石標と
「白河院並びに法勝寺跡」の駒札    京都市左京区岡崎法勝寺町

曲中に謡われる法勝寺は俊寛が執行しぎょうとして権力を振るった大伽藍で、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺とともに六勝寺と総称された寺で、東は岡崎道より300メートル東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50メートル南に囲まれた広大な寺域を有し、境内には金堂、講堂、阿弥陀堂、法華堂、五大堂、八角堂、常行堂などの諸堂が立ち並んでいた。中でも池の中島の八角九重塔は壮大な高塔であったといわれている。
現在京都市動物園の中に「法勝寺九重塔址」の碑が立てられており、傍らには「法勝寺推定復原図」が掲げられ往時を偲ばせてくれる。
また、市バスの停留所「法勝寺」の近くには「此付近白河院址」の石標と、「白河院並びに法勝寺跡」の駒札があり、跡地には私立学校職員共済組合京都宿泊所白河院が建てられている。往時を偲ぶものは何もないが、僅かに地名やバス停に法勝寺の名前が残っているのが嬉しい。

法勝寺九重塔址 法勝寺九重塔址の碑 京都市左京区岡崎法勝寺町 京都市動物園内 (平8.4)

法勝寺復元図 法勝寺推定復原図 京都市動物園内 (平8.4)

白河院址 「白河院址」の石碑と「白河院址並びに法勝寺跡」の駒札  京都市左京区岡崎法勝寺町 (平8.4)

満願寺、俊寛致居の碑、俊寛荒行の井戸  京都市左京区岡崎法勝寺町

動物園の近くに満願寺があり、境内には「俊寛僧都致居之碑」や「俊寛僧都荒行の井戸」がある。この寺は現在は日蓮宗のお寺であるが、元禄年間にこの地に移転してきた旨記されている。俊寛は法勝寺の一部とも言えそうなこの地に住み、この井戸で荒行をおこなっていたのであろう。

満願寺 満願寺 京都市左京区岡崎法勝寺町 (平8.4)

俊寛致居の碑 俊寛致居の碑 満願寺 (平8.4)

俊寛荒行の井戸 俊寛荒行の井戸 満願寺 (平8.4)

鹿ケ谷 「此奥俊寛山荘地」「俊寛僧都旧跡道」「俊寛旧跡」の碑
京都市左京区鹿ケ谷

鹿(しし)ケ谷山荘は俊寛が平家打倒の密議をこらした所で、その址には「俊寛僧都忠誠之碑」が建っているとのことで訪ねてみたが、残念ながら途中で断念引き返してしまった。
場所は銀閣寺から若王子神社へ至る疎水沿いの、いわゆる「哲学の道」の中程を東に折れたあたり一帯が鹿ケ谷である。霊鑑寺の南側に「此奥俊寛山荘地」の石標が立っている。ここから道幅が急に狭くなり、坂も急になる。
コンクリートの歩道が途絶えて山道となる所に「歴史的風土特別保存地区」と書かれた石標があり、さらに進むと「俊寛僧都旧跡道八丁」の碑が見えてくる。ここを過ぎると小さな橋を渡り、道も更に狭くなり勾配も急になる。日も暮れかかってきたし、一緒に来た家内は遥かに遅れて姿も見えない。あとどれくらいかかるか聞く人も見つからない。進むか引くか迷ったが、再度挑戦を期して山道を引き返した。
それにしてもこんな山奥まで来て談合したのであろうか。乗り物のない時代では都人でもこれくらいの道は平気だったのであろう。謀議に参画した人々の執念のほどが窺われる。

<追記 平15・3>
同じ年の平成8年9月再度ここを訪ねて見た。前回これを見落としたため真っ直ぐに進んでしまったのだが、今回はこの「左 俊寛旧跡」の碑を見つけたので左への小径を進んだ。しかし、しばらく行くと今度は大雨でも降ったためか道が全部崩れ落ちて通ることが出来ない。細い丸太の杉を二本ほど置いてあるがとても怖くて渡れない。山を登って迂回すればとも思ったが危ないので今回も中止してしまった。三度挑戦しようかどうか迷っている。

此奥俊寛山荘碑 鹿ケ谷「此奥俊寛山荘地」の碑 京都市左京区鹿ケ谷 (平8.4)

俊寛僧都旧蹟道 「俊寛僧都旧跡道」の碑 (平8.4) 道に迷い暗くなったので断念

左俊寛旧蹟碑 「左 俊寛旧跡」の碑 (平8.9) 再度挑戦したが道が崩れ落ちていたため断念

「法成寺址」の碑    京都市上京区荒神口通寺町

曲中「あはれ都に在りし時は、法勝寺法成寺、ただ喜見城の・・」とある法成寺は、藤原道長の建立した宏壮華麗な巨刹であったというが、今のそのあとかたもなく、「従是東北 法成寺址」の碑が残るのみである。

法成寺址碑 「法成寺址」の碑 京都市上京区荒神口通寺町 (平2.8)

九州の「俊寛」関係謡蹟     (平15・3記)

俊寛之碑    鹿児島市中町

鹿ケ谷の謀議が露見して捕らえられた俊寛、康頼、成経の三人は鬼界島(現在の三島村硫黄島)に流されることとなり、ここから船出したといわれる。明治31年頃にここが埋め立てられるまでは堀があって俊寛堀と呼ばれていたという。

俊寛の碑 俊寛之碑 鹿児島市中町 (平7.11) 俊寛たちはここから船出して硫黄島に向かった

薩摩潟     鹿児島県開聞町長崎鼻

曲中に薩摩潟とあるが、私は鹿児島県薩摩半島の最南端、長崎鼻から見る薩摩潟を長め俊寛を偲んできた。この海の彼方50キロのところに俊寛たちが流された硫黄島がある。

薩摩潟 薩摩灘 鹿児島県開聞町長崎鼻 (平7.11) 洋上遙か50キロのところに硫黄島がある


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