石橋山古戦場

謡蹟めぐり  七騎落3 頼朝挙兵 土肥実平・遠平、岡崎義実関係

頼朝挙兵・石橋山の合戦・敗戦・船出 (昭8・4記)

治承4年(1180)8月17日、遂に頼朝は挙兵した。

山木兼隆舘址 静岡県韮山町山木

平氏に召集されて京都に上っていた相模の武士大庭景親以下多勢が、東国に逃れた頼政の孫たちを追討する命令をうけて帰ってきた。かれらの口からすでに頼朝謀反の情報が京都まで達している事実が明らかにされた。やがて正式の討手がさし向けられることは目に見えている。こうなってはわずかの手勢だけでも、とにかく先制攻撃をかけるよりほかはない。
当面の敵はまず伊豆の目代で、政子をめぐり恋敵でもある山木判官兼隆である。8月17日、伊豆の一の宮三島神社の大祭の夜、兼隆の従者たちも多くは祭に出かけ、警備も手うすになると見込んで夜襲を決行、奇襲は成功した。
山木兼隆の舘址は韮山町の江川邸(世襲代官江川太郎左衛門の代官屋敷)の近くと聞いて訪ねてみたが、ガイドブックで見た独特の碑がなかなか見付からない。個人の邸宅の中のようなのですこし躊躇したが、思い切って門の中に入ってみた。折りよく老人の方がおられたので、来意を告げると仕事の手を休めて快く案内してくれ、いろいろお話を聞かせて下さった。邸内は閑静な林となっており、山木判官や政子が今現れても不思議ではないような雰囲気である。変った書体ながら、よく見れば「兼隆舘址」と読める碑とともに、永く残していただきたい謡蹟である。

山本館跡の邸宅 山本兼隆館址のある邸宅 静岡県韮山町山本 (平6.12)

山本邸宅址碑 山本兼隆館址碑 韮山町 (平6.12)

石橋山古戦場の碑、石橋山古戦場よりの眺望 小田原市石橋

挙兵第1歩は成功したがその後が大変であった。隣国駿河は平氏の長年の知行国で目代は多数の軍兵をひきいており、相模にも大庭景親以下、平氏方の武士が多い。伊豆国内でも伊東祐親は八重姫以来の仇敵である。四方みな敵、という中でわずかに箱根山をこえた関東平野には、相模の三浦氏一族のように来援を期待できる武士団がいる。かれらと合流するため頼朝は東方へ血路を開くこととし石橋山に到着した。
小田原市の南、早川を過ぎたあたりの国道135号線を右手に上ると石橋山古戦場の碑がある。晴れた日だったので、一面のみかん畠の間には東海道本線が見え、その向うには青々と拡がる相模灘、小田原から遠く三浦半島へ続く海岸線を一望のもとにおさめることができた。800年の昔、ここに源氏の白旗が翻ったことであろう。
しかしそのときすでに、大庭景親以下平氏側の武士3000余騎は前方にふさがり、後方の山には追尾してきた伊豆の伊東祐親の軍300余騎が控えていた。左手は険しい山、右手は急な崖下に海が迫り、頼朝軍はまったく袋のねずみ同然となった。頼みとしていた三浦氏一族は、降り続いた大雨に出足をはばまれ、ようやく酒匂川の北岸まで到着したものの、増水した川を渡りかねている状態であった。

石橋山古戦場 石橋山古戦場の碑 小田原市石橋 (平5.12)

古戦場眺望 石橋山古戦場よりの眺望 (平5.12)

土肥の大杉  神奈川県湯河原町城山

頼朝は石橋山の合戦に敗れ、土肥実平を中心とする七騎で土肥杉山(湯河原の山奥)の山中に逃げ込んだ。大杉の根元のうつろの中に隠れていたところを大庭景親の一族梶原景時が頼朝の存在を知りながら助けたので危うく難を逃れた。この杉は大正年間に暴風雨で倒れたが、その址に土肥大杉址の碑が建てられている。

土肥大杉 土肥大杉址の碑 神奈川県湯河原町城山 (平9.4)

鵐(しとど)の窟、謡坂の碑  神奈川県湯河原町、真鶴町

土肥の大杉からかなり下った所にしとどの窟があり、ここでも頼朝一行は数日を隠れ過したという。大庭景親の追手が怪しんで中をのぞいたが、「シトド」といわれる鳥が急に舞い出たので、人影はないものと立ち去った。このことから鵐(しとど)の窟と呼ぶようになったといわれる。現在でもここへ行くには400メートルほどの急な坂道を降りなければならない。
真鶴の海岸にもしとどの窟があり、一行は船出の前夜この窟に潜伏したといわれる。
漸く山中から脱出した一行は海岸にたどりついたが、土肥実平の舘は敵に火をかけられ炎上していた。実平はそれには構わず、海岸への途中の坂で休息、主君の無事を祝い再起を願って謡を謡い、舞を舞ったという。現在ここに謡坂の碑が建てられている。

しとど窟湯河原 しとどの窟 神奈川県湯河原町 (平8.12)

しとど真鶴 しとどの窟 神奈川県真鶴町 (平6.3)

謡坂の碑 謡坂の碑 神奈川県真鶴町 (平6.3)

岩村海岸、源頼朝船出の浜碑、源頼朝開帆処碑  神奈川県真鶴町岩

小田原から真鶴有料道路を真鶴に向かうと道路は海の上に出て右手に岩漁港が見られる。この海岸こそ頼朝が石橋山の合戦に敗れ、房総へ向けて船出した所である。
源頼朝船出の浜碑には
「 石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、箱根山中や鵐窟などに難を逃れ、謡坂を経てこの海岸から房州に向かって船を出し、虎口を脱したと伝えられています。 」と刻まれている。
また近くにある源頼朝開帆処碑には「 誓復父讐挙義兵石橋山上決?佐公維昔開帆処謡曲長伝七騎名 文学博士 塩谷温題 」とある。残念ながら私にはよく読めない。

岩村海岸 岩村海岸 神奈川県真鶴町岩 (平6.3)

船出の浜碑 源頼朝船出の浜碑 真鶴町岩 (平6.3)

開帆碑 源頼朝開帆処碑 真鶴町岩 (平6.3)

土肥次郎実平・遠平関係  (平15・1記)

土肥氏館址碑、土肥実平夫妻の像  神奈川県湯河原町 湯河原駅前

土肥実平は現在の神奈川県湯河原駅あたりから山手にかけて広大な館を構えていたようである。湯河原駅前には土肥氏館趾の碑がある。
碑面には「乾坤一擲」と題して次のように記されている。

「 源頼朝が覇業を天下に成したるは治承4年(1180)8月、その崛起にあたり湘西における筥根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複雑なる地利と此の地の豪族土肥実平等一族並びに行実坊、永実坊・僧純海など志を源家に寄せる人の和と天運に依る。
石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解纜した真鶴崎などまさに千載画期の史跡である。
茲に挙兵780年を記念して土肥氏館址に碑を建立するにあたり文を需めらるに仍って誌す。
   昭和35年8月23日 神奈川県文化財専門委員 武柳学園長 石野 瑛 」

また、この碑のかたわらには、NHK大河ドラマ「草燃える」の放映記念として、昭和56年4月に建てられた、土肥実平夫妻の像がある。

土肥氏館跡碑 土肥氏館趾碑 湯河原駅毎 (平8.8)

実平夫妻像 土肥実平夫妻の像 湯河原駅前 (平8.8)

城願寺、七騎堂、七騎の木像  神奈川県湯河原

湯河原駅裏手にある城願寺は土肥一族の舘址の一部で、実平が再建して菩提寺とした寺といわれる。門内にある実平手植えの大柏槙は樹齢800年といわれる。境内には七騎堂と称する建物があり、その中には七騎の木像が安置されている。
左から安達藤九郎盛長、岡崎四郎義実、新開次郎忠氏、源頼朝、土屋三郎宗達、土肥三郎実平、田代冠者信綱と読める。
また、寺の墓地には土肥実平の墓、遠平の墓、土肥一族の墓がある。

城願寺 城願寺 神奈川県湯河原町 (平8.8)

七騎堂 七騎堂 城願寺 (平8.8)

七騎木像 七騎の木像 七騎堂 (平6.5)

土肥一族の墓 土肥一族の墓 城願寺 (平8.8)

岡崎四郎義実関係  伊勢原市岡崎  (平15・1記)

岡崎義実の居城岡崎城址は伊勢原市岡崎の丘の上にある無量寺で、岡崎城址の碑があり、ここから少し離れた林の仲に岡崎義実の墓がひっそりと立っている。
当時の慣例で武将たちはそれぞれの住所の名を姓に名乗っていた由であるが、この岡崎義実の伊勢原市岡崎をはじめ、佐奈田与一の平塚市真田、新開次郎の深谷市新戒、土屋三郎の平塚市土屋、和田小太郎の三浦市和田、大庭景親の藤沢市大庭、俣野五郎の横浜市戸塚区俣野など、現在にいたるまでその地名と古蹟が残っているのは大変嬉しい限りである。

無量寺 無量寺 伊勢原市岡崎 (平7.4)

岡崎城址 岡崎城址 (平7.4)

岡崎墓 岡崎義実の墓 (平7.4)


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