巴が渕

謡蹟めぐり  巴 ともえ

ストーリー

木曽の山里の僧が都へ上る途中、近江国(滋賀県)粟津の原までやって来ます。そこへ一人の里女が現れ、とある松の木陰に社に参拝しながら涙を流しています。
僧が声をかけると、神社の前で涙を流すことは不思議ではないことを語り、ここはあなたと故郷を同じくする木曽義仲が神として祀られているところであるから、その霊を慰めてほしいと頼みます。そして実は自分も亡者であると言い残して、夕暮の草陰に隠れてしまいます。
旅僧は、里人に義仲の最後と巴御前のことを詳しく聞き、一夜をここで明かすべく読経し、弔います。すると先程の女が、長刀を持ち甲冑姿で現れ、自分は巴という女武者であると名のり、義仲の討死の様と、自分の奮戦ぶりを物語ります。一人落ち延びたのが心残りで成仏の妨げになっているのでそれを晴らしてほしいと回向を頼んで消え失せます。(「宝生の能」平成13年2月号より)

「義仲」「巴」「兼平」関係の謡蹟  (平19・3記)

木曽義仲が登場する曲として、宝生流には「巴」「実盛」「兼平」の3曲があるが、「義仲」という曲はない。しかし、「巴」「兼平」ともに義仲を中心にしたような曲なので、「兼平」の項で、義仲の生涯を概観し、義仲に関する謡蹟も紹介した。
ここでは「兼平」「実盛」の項で取り上げなかったもののみを紹介することとする。

巴が渕、巴渕碑、慕情の碑 長野県日義村宮の越

国道19号線を南下して日義村に入るとすぐに巴が渕がある。木曽川が山吹山のふもとを迂回して形づくる深い渕である。なんとも云えない神秘的な色あいの渕である。この渕は巴御前の名にちなんで巴が渕と呼ばれる由であるが、渕の上の山吹山はも義仲のもう一人の妾山吹御前にちなんでこのように呼ばれるという。
「巴渕」と大きな字で深く刻まれた碑があるが、よく見ると大きな文字の右横に
     山吹も巴もいでて田うへ哉  許六
と書かれている。山吹御前も義仲の愛妾で京都で病に臥していたが、義仲の合戦を聞き大津まで辿りついたけれども、義仲に逢えないまま討手に殺されたという。「兼平」の項で紹介した義仲寺にその墓がある。別の説では義仲誕生の地、埼玉県の嵐山町に来て出家し班渓寺を建立、義仲の長男義高の菩提を弔ったともいう。班渓寺には山吹の墓もある。この俳句を読むと、義仲が巴や山吹と一緒にこの里で田植えをしたり、この渕のあたりで遊んでいた姿が目に浮かぶようである。
巴が渕の伝説については、案内板に次のように記されている。

「    木曽三川三十六景の一 伝説の残る巴が渕
歴史が漂うこの渕は、巴状にうずまき巴が渕と名づけられた。
伝説には、この渕に龍神が住み、化身して権の守中原兼遠の娘として生まれ、名を巴 御前と云った。義仲と戦場ではせた麗将巴御前の武勇は、痛ましくも切々と燃えた愛の証しでもあった。巴御前の尊霊は再びこの渕に帰住したと云う。法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔むして並ぶ。
絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いでは武技を練ったと云う。そのつややかな黒髪のしたたりと乙女の白い肌えには、義仲への恋慕の情が燃えていた。
岩をかみ蒼くうずまく巴が渕、四季の風情が魅する巴が渕、木曽川の悠久の流れと共に、この巴が渕の余情はみつみつとして今も世の人の胸にひびき伝わる。
     蒼蒼と巴が渕は岩をかみ 黒髪愛しほととぎす啼く
                 日義村、日義村観光協会  」
また、近くには、「慕情の碑」が建っており
     粟津野に討たれし公の霊抱きて 巴の慕情渕に渦まく
と刻まれている。

巴が渕 巴が渕 (平9.7)

巴渕碑 巴渕の碑 (平9.7)

慕情の碑 慕情の碑 (平9.7)

時代祭の巴御前    京都市 時代祭

京都の時代祭は楽しい。静御前、小野小町、紫式部、清少納言、常盤御前・・
謡曲に登場する人物も結構多い。巴御前の馬上の武者姿も美しい。いつまでも続けてほしい祭である。

時代祭巴 京都 時代祭りの巴御前 (平8.10)


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