洛北(京都)八瀬の里で夏の仏道修行を行っている僧のもとへ、毎日木の実や薪を持って来る女があります。今日もまた訪れた女は木の実づくしを語り、僧に素性を問われると、自分は市原野に住む者と答え、小野小町の「秋風の吹くにつけても」の歌の一部を口ずさみ、かき消すように失せてしまいます。
その言葉つきから小町の幽霊と察した僧は市原野へ行き、小町の亡き跡を弔います。すると薄の中から小町の亡霊が現れます。そして僧に授戒を請いますが、後から現れた深草の少将の怨霊が小町の成仏をさまたげるのです。僧が、繊悔のために百夜通いの様をみせるように説くと、少将は請われるままに雨の夜も小町を慕って通いながら、九十九夜目、恋の成就する喜びの絶頂で死した昔語りを狂おしく再現して見せ、やがて小町も少将も成仏していきます。(「宝生の能」平成11年8,9月号より)
曲中に「是は八瀬の山里に一夏を送る僧にて候」とある。今は八瀬遊園地も出来、比叡山に登るケーブルも通り、行楽のシーズンには賑わっているようだが、昔は淋しい山里だったことと思う。5月に訪ねたが新緑が美しかった。
「薄生ひたる市原野辺」というのは現在小町寺のあるあたりであろうか。小町寺は俗称で正式には如意山補陀洛寺という。境内には小野小町あなめのすすき、小野小町供養塔、深草少将の墓、小町姿見の井戸と小町ゆかりの遺跡が沢山ある。本堂には小町自作の像が安置されている。
百人一首に出てくる有名な句
花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに
は小町が詠んだものである。美人の誉れ高い小町が晩年流浪のはてに昌泰3年(900)、この地で亡くなったという。
八瀬の里 京都市左京区八瀬 (平6.5 ) 今でも川の水は清く、新緑が美しい。
小町寺 京都市左京区静市市原町 (平5.11) 小野小町が晩年流浪のはてにここで亡くなったという。境内には数々の遺跡がある。
あなめのすすき 小町寺 (昭 59.3)
小野小町供養塔 小町寺 (昭 59.3)
深草少将の墓 小町寺 (平5.11)
小町姿見の井戸 小町寺 (平5.11)
随心院は小野小町が住んだ所で、小町が朝夕粧をこらしたという化粧の井戸とか、深草少将をはじめ貴公子より寄せられた千束の文を埋めたという文塚や、深草に通ずる深草少将百夜通いの道などがある。
随心院 京都市山科区小野御霊町 (昭 58.7) 小野小町が住んだところ。
小町化粧の井戸 随心院 (昭 58.7) 小町が朝夕化粧をこらしたところという。
文塚 随心院 (昭 58.7) 深草少将はじめ貴公子から寄せられた千束の文を埋めたという。
東福寺といえば紅葉の名所として知られるが、広い境内の一隅に退耕庵がある。
関ヶ原の合戦の際石田三成、宇喜田秀家らがここで謀議を行なったと伝えられるが、小町堂と呼ばれる堂の中には高さ2メートルの玉章(たまづさ)地蔵がある。小町あてに来た恋文を表面に張った小町自作の像という。撮影禁止のため写真を掲げられないのは残念である。
庭には小野小町百歳の井がある。この井戸にうつった自分の姿を見て小町は
おもかげのかわらでとしのつもれかし たとえこの身に限りありとも
の歌を詠んだと伝えられる。
退耕庵 京都市東山区本町 東福寺塔頭 (平5.11) 小町自作の玉章地蔵がある。
小町堂(玉章地蔵尊) 退耕庵 (平5.11)
小野小町百歳の井 退耕庵 (平5.11) この井戸にうつった自分の姿を見て歌を詠んだ。
秋田県雄勝町は小野小町の生誕の地として知られており、数々の遺跡があるというので訪ねたみた。
案内板には次のように記されている。
「 小野小町遺跡 小野小町生誕の地
小野小町は大同4年、出羽国福富の荘(雄勝町小野字桐の木田)で生まれました。
幼い頃から美しく13歳の頃京にのぼりその後20年程宮中に仕えました。その容姿の美しさや才能の優れていることなど、数多くの女官中ならぶ者がいないと言われ、時の帝から寵愛を受けました。
しかし小町は36歳にして故郷恋しさのあまり生地小野の里に帰り、庵を作り歌に明け歌に暮らしておりました。京から小町の姿がなくなったので、小町に想いを寄せていた深草少将は急ぎ東下りをし長鮮寺に仮の住いを求めました。そして百夜通いの逸話を残し九十九日目の夜、降り続いた雨の中森子川にかかった橋とともに流され亡くなってしまうのです。これを聞いた小町は嘆き悲しみ少将の遺骸を森子山(二つ森)に葬りました。
そののち小町は、岩屋堂に住み世を避け香をたきながら一人自像をきざみ、92歳で生涯を閉じました。
「小町まつり」は、毎年芍薬の花香る、6月第2日曜日に、七小町による和歌朗詠、稚児行列などが盛大に行われます。
雄勝町 」
また、堂の横には、小野小町の肖像画が掲げられている。
小町堂 秋田県雄勝町 (平6.6) 小野小町生誕の地と伝えられる。
小野小町の肖像画 小町堂 (平6.6) 小町堂に掲げられているものである。
小町堂の傍らに芍薬塚がある。小町は幼い頃から芍薬を愛し、京へ登るとき館の庭に芍薬を植えた話が伝承されている。
また深草少将がこの地に下り、今度は九十九夜芍薬を植え続けた後亡くなる。これにちなんで小町堂の傍らに九十九本の芍薬が植えられたのとも伝えられる。
芍薬塚 小町堂傍ら (平6.6) 小町は幼い時から芍薬を愛し、京へ登るとき館の庭に芍薬を植えたという。
小町の母は、時の村長(むらおさ)の娘とされ、郡司小野良実と結婚するのであるが、小野が幼いころに病気のため亡くなった。その後小町は乳母の養育をうけ、それは目をみはる程に美しくなった。
自然石に梵字が刻んであるが、姥の石とも言われており、小町の母の墓地、墓標とも伝えられている。
姥子石 秋田県雄勝町 (平6.6) 小野小町の母の墓地と伝えられる。
小町の菩提寺とも言われ、別当山の麓にあった。その頃は小町寺とも言われていた。良実の建立した寺で、小町が晩年岩屋堂で刻んだという小町自作の木像が安置されている。
向野寺 秋田県雄勝町 (平6.6) 小町の菩提寺ともいわれる。
自作像安置所 向野寺 秋田県雄勝町 (平6.6) 小町自作の像を安置している。
この神社の傍らには薬師寺如来の社があった。深草少将の百夜通いが始まる頃小町は疱瘡を患っており、この寺に日参してここの泉の清水で顔を洗い一日も早く治るよう祈った。この泉は小町泉あるいは小町姿見の泉と言われている。
磯前神社 秋田県雄勝町 (平6.6) 疱瘡を病んだ小町はここに日参、泉の清水で顔を洗い治癒を祈ったという。
写真でははっきりしないが、二つの森となっており、大きい方を男森、小さい方を女森と言い、深草少将と小野小町の墳墓の地といわれている。
二つ森 秋田県雄勝町 (平6.6) 深草の少将と小町の墳墓の地といわれる。
小町が晩年92歳で死ぬまで隠栖したという岩屋堂が別当山の中腹にあるというので訪ねようとしたが、かなり遠い所のようで、しかも雨のため滑りやすくなっており、途中で句碑
滴りや 小町籠りし 岩屋堂
を発見したので、岩屋堂行きは断念し引き返してしまった。
岩屋堂句碑 秋田県雄勝町 (平6.6)
小町を慕って、はるばる東下りし、小野の地にたどりついた深草少将は長鮮寺を仮の住まいとし、ここから小町の館桐の木田まで百夜通いをした。いまの桐善寺は、寛永年間に桐の木田から平城に移ったが、その時長鮮寺にあった深草少将の供養塔を境内に移した。
桐善寺 秋田県雄勝町 (平6.6) 深草少将仮住まいの地。境内に少将の供養塔がある。
深草少将供養塔 桐善寺 (平6.6)
良実が建て替えた神社で、小町が京から送った文などを一つ箱に入れ、和歌宮に安置しておいたが、文禄年間最上義光の兵火により無残にも焼け滅びた。元和年間今のところに再建された。
熊野神社 秋田県雄勝町 (平6.6) 小町が京から送った文などをここに安置していたと伝えられる。
倉敷市の日間山法輪寺の裏山をかなり登った所に小野小町姿見の井戸がある。
井戸傍らの説明によると、嵯峨天皇の頃小野備中守常澄という人がこの国の守護であった。その娘の小町は采女となって宮仕えしていたが、たまたま瘡を患当地の日間薬師に病気平癒の願をたてた。この間小町はこの井戸を鏡として自分の顔を写していた。満願の日日間薬師のお告げによって病気は全快した。
その後小町は黒田村に帰り小庵をたててここに住み尼となって、この地に一生を終えたという。
小野小町姿見の井戸 倉敷市羽島 (平9.9) 瘡を病み平癒の祈願をしこの井戸に自分の姿を写したという
日間山法輪寺 倉敷市羽島 (平9.9) 小町は日間薬師に病気平癒の願をかけた
小野小町の墓 岡山県清音村黒田 (平9.9) ここで生まれここに帰って生を終えたといいう。
鳥取県岸本町小町には小町を祀る小町神社と少し離れた所に小町の墓がある。遣唐使を断ったため隠岐に流された祖父の篁を追ってここまできた小町が病没したという。地元では昔から「御前さん」と呼んで供養を続けており、ごの五輪の空風輪によって出来た石粉を顔につけると美しくなり、また悪疫よき、学問向上のご利益があると言われている。
小町神社 鳥取県岸本町小町 (平9.9) 山間の小社
小野小町の墓 鳥取県岸本町小町 (平9.9) 探すのに随分苦労した
京の都より父をたづねて幾山河、小町な馴れぬ旅路に疲れ果てて病に伏しこの地で石の上で休んだ。すると夢の中で薬師如来のお告げがあった。あたりを見まわすと湯煙りが立ちのぼり、近くにはこんこんと湯が湧き出ている。小町はこれに浴すること七日ばかり、疲れはとれ病は癒え元の美人に戻ることが出来た。この温泉が小野川温泉であり、尼の湯を開設した。また薬師如来堂を建立したと伝えられる。
近くを川が流れているが、小町が病気の時は川に映る自分の顔は鬼面そのものであったことから鬼面(おもの)川と名がつけられたという。
小町はこの地で亡くなったと言われ、村人が埋葬した地に塚が造られ地蔵尊を安置したのが美女塚である。少し離れた所に美男塚があるが、これは小町を慕って後を追ってきた深草少将が死に際に、美女塚と向き合った所の埋めてもらいたいと遺言したのでこの地に埋葬し、地蔵尊を安置したものという。
小野川温泉尼湯 米沢市小野川温泉 (平12.6) 小町が発見した温泉といい、尼湯は小町が開設した浴場である
小野小町休み石 小野川温泉 (平12.6) 京より父を尋ねて来た小町はここで休み温泉を発見する
瑠璃光薬師如来尊 小野川温泉 (平12.6) 小町の建立と伝える
小町居所跡開山開湯の碑 小野川温泉小町山 (平12.6) 甲子大黒天本山の境内に大きな碑が建つ
鬼面(おもの)川 小野川温泉 (平12.6) 小町は瘡にかかり川に映る自分の顔は鬼の面のようであった
美女塚 米沢市塩井 (平12.6) 小野小町はここで病没したという
美男塚 米沢市塩井 (平12.6) 小町のあとを追ってきた深草少将の埋葬地という
大阪市阿倍野区王子町の民家の間に小町塚がある。古書には小野小町の塚であると説明しているが、小町が阿倍野の地で死んだという記録はなく、小町の美貌や才能にあやかりたいものとの念願から信仰などの目的で造られたもののようである。
隣の播磨塚は南北朝の頃楠正行に率いられた者の中に播磨の武士も多く戦死したのでその遺骨を納め塚にしたものという。
小町塚 大阪市阿倍野区王子町 (平12.8) 小町の美貌才能にあやかりたいと願い造られたようだ
四条東洞院通りの仏光寺あたりを歩いている時偶然発見した碑である。
説明によると小町の住居跡で、小町は小野篁の孫とも伝え、六歌仙の一人で百人一首の
花のいろはうつりにけりないたずらに わが身よにふるながめせしまに
これは当地で詠んだものという。西洞院川の当地に井戸があり、小町が生活の場として使ったとして永く「化粧水」の名称で親しまれてきたという。
小野小町の化粧水の碑 京都市下京区 (平3.9) 小町の住居跡という
京都の時代祭に小野小町も登場していたのでカメラに納めてきた。
時代祭の小野小町 京都市時代祭 (平8.10)
浅草の浅草寺西側境内影向堂の前にある西仏板碑は小町の石塔であるという伝承がある由であるが、詳細は不明で傍らに立つ説明にも小町のことは何も触れていない。しかし東京都指定の有形文化財となっており、中世の信仰を知るうえで貴重な遺品とのこと。
西仏板碑 浅草寺境内 (平12.12) 小町の石塔との伝承もあるがさだかではない