頼朝隠れ岩

謡蹟めぐり  七騎落5 安房上陸

安房上陸    (平8・4記)

岩村海岸を船出して安房に着いたのは8月29日、挙兵から僅か12日後である。

頼朝上陸地碑、矢じりの井戸、洲崎神社 千葉県

頼朝の上陸した地点については、伝承をもとに数ヵ所の地名が挙げられているが、中でも鋸南町竜島と館山市洲崎は代表的な地点として有力視されてきた。吾妻鏡は竜島説、源平盛衰記と義経記は洲崎説をとっているとのことである。
頼朝主従は上陸したものの飲み水がなく、頼朝は持っていた矢じりで自らこの地を一突きすると、こんこんと湧き出たのが「矢じりの井戸」であると里人は伝える。
そして頼朝はこの先の洲崎神社に戦勝と源氏再興を祈念し、目的成就の暁には神田を寄進する旨の願文を奉ったという。

上陸地鋸南 頼朝上陸地碑 千葉県鋸南町勝山 (平6.11)

上陸地館山 頼朝上陸地碑 館山市洲崎 (平6.11)

矢じりの井戸 矢じりの井戸 館山市洲崎 (平6.11)

洲崎神社 洲崎神社 館山市洲崎 (平6.11)

那古観音、下立松原神社、頼朝手植えの大蘇鉄、仁右衛門島、頼朝かくれ岩 千葉県

頼朝は那古観音、下立松原神社にも平家追討を祈願し武運長久を祈った。上陸後暫くは安心できない状況にあり、伝説では鋸山の山中に隠れ、房総半島を横断して鴨川方面に向かったという。鋸山の日本寺の本堂前には頼朝手植えの大蘇鉄がある。鴨川の仁右衛門島も頼朝の隠れた所として知られ、島には頼朝隠れ岩がある。

那古観音 那古観音 館山市那古 (平6.11)

下立松原神社 下立松原神社 千葉県千倉町牧田 (平6.11)

手植えの蘇鉄 頼朝手植えの大蘇鉄 千葉県鋸南町 日本寺 (平6.11)

仁右衛門島 仁右衛門島 鴨川市 (平6.11)

頼朝隠れ岩 頼朝かくれ岩 仁右衛門島 (平6.11)

参集する武士たち (平8・4記)

安房に上陸した頼朝の下には平家に不満を持つ関東の武士たちが続々参集し、たちまち一大勢力となって鎌倉へ進撃することとなった。

三浦氏一族

来迎寺の碑に曰く、
「 三浦大介義明は庄司義継の長男で平家の出ではあるが、平家の横暴腐敗した政治を正すため源氏に仕えた。時の世人挙げて平家に従ったが、ただ独り厳然として頼朝に尽力した。惜しくも石橋山合戦に惨敗した頼朝に、何としても天下統治の大任を・・と思う一念、三浦一族郎党の兵力を総結集し、頼朝再起旗揚げの機に加勢させ、衣笠城主義明は残存する小兵をもって、敵(畠山次郎重忠)に包囲され、頼朝の戦況の利を知り、遂に場内で自刃した。頼朝の軍勢は十数倍にふくれ上がり、敵の勢力を圧倒して鎌倉に入り、後、征夷大将軍となり鎌倉幕府を創建した。
この国家大業の成就の陰には義明の先見の鋭智と、偉大なる人徳によること大である。義明あって鎌倉幕府あり、鎌倉幕府の成否は義明によって決したと断ずるも過言ではない。 」 と。

当時三浦半島一帯は三浦氏一族の勢力圏であり、義明の兄弟・子・孫たちはこの半島内の要所要所に舘をたて、一族同士でつよく結ばれていた。房総半島へのかけ橋の役をはたす三浦半島をおさえているだけに、対岸の安房・上総にも勢力を伸ばしていたと見られ、三浦氏の援護のおかげで頼朝も後顧の憂いなく安房へ渡れたものと思う。
来迎寺には義明の墓、義明の家来の無数の墓がある。
横須賀市の衣笠城の近くにある満昌寺は、建久5年、源頼朝の意志に基づき三浦大介義明が創建されたものと伝える。寺の背後に大介の首塚という廟所があり、また高さ約1メートルの木像の坐像が安置されている由である。また境内には頼朝手植えのつつじがある。

来迎寺 来迎寺  鎌倉市材木座 (平6.12)

三浦義明の墓 三浦義明公の墓 来迎寺 (平6.12)

義明家来の墓 義明公家来の墓 来迎寺 (平6.12)

満昌寺 三浦義明廟所 横須賀市大矢部 満昌寺 (平6.12)

三浦義明首塚 三浦義明首塚 満昌寺 (平6.12)

頼朝手植えの躑躅 頼朝手植えのつつじ 満昌寺 (平6.12)

上総介広常

上総に入ると上総介広常の一族が国内に大きな勢力をふるっている。かって11世紀の初め、房総三国に将門の乱以来の大叛乱をおこしこの地方を制圧したが、遂に鎮圧された平忠常の子孫である。上総介は2万余騎の大軍を率いて頼朝軍に参加したが、かなり遅れたため頼朝の不興を買った。その後も不遜な態度がしばしばあり、後に梶原景時の手で討たれた。
大原町下布施に布施塚があり、景清塚とも言われており、「景清」の項にも掲載したが、学術調査の結果は上総介広常の供養塔とのことである。供養塔には「上総介従三位平之朝臣広常卿」「総見院殿観宝広恒大居士供養塔也」と書かれている。

布施家の石塔 布施塚の石塔 千葉県大原町下布施 (平6.11)

上総之介供養塔 上総介広常の供養塔 千葉県大原町下布施 (平6.11)

千葉介常胤

千葉氏は、平氏の姓を賜った高望王の子良将よりの家柄であるが、子孫の常永が元服の時、源義家が烏帽子親となった縁があり、千葉氏と源氏は密接な関係があった。頼朝が安房を北上すると聞いて、千葉常胤は義家時代の旧交を忘れず、頼朝を暖かく迎え入れた。
千葉市轟町にある大日寺は千葉氏累代の墓が残る菩提寺。亥鼻町にある亥鼻城は千葉氏の居城であった。また寒川にる君待橋は千葉常胤が頼朝を待っていた橋と伝えられる。
寒川の地名は頼朝がここに到着したとき「今朝は寒い」といったことから起こったとのこと。
白幡神社は結城稲荷と呼ばれていたが、頼朝は社に源氏の白幡を奉納し、ここに数十本の白幡をおし立てたことから、以後、白幡大明神と称せられ、明治に至って白幡神社と改称した。
亥鼻公園下のお茶の水は今でもこんこんと水が湧いており、頼朝が千葉に入って来た時、千葉介が寒川の君待橋に待ち受けて、茶を献じた時の水という。

白幡神社 白幡神社 千葉市中央区新宿 (平6.11)

お茶の水 お茶の水 千葉市亥鼻 亥鼻公園下 (平6.11)

河越太郎重頼

北関東からも有力な豪族が武蔵の兵を集め頼朝の下に参集した。河越太郎重頼もその一人である。重頼の娘は後に頼朝の命で義経の正妻となり、また子の重房は「千手」に謡われるように重衡を捕らえて都に送っている。
河越氏の菩提寺は川越市元町の養寿院であり、境内には河越重頼の墓がある。

養寿院 養寿院 川越市元町 (平6.10)

川越太郎の墓 河越太郎重頼の墓 養寿院 (平6.10)

畠山重忠

畠山重忠も武蔵の豪族である。父重能は木曽義仲の幼時の駒王丸を匿い、実盛に助命させた(「実盛」参照)。頼朝旗上げの時は重能が京都で平家に抑留されていたため、やむなく大庭景親に味方して三浦義明や和田義盛と戦ったが、頼朝が安房に来た時に頼朝に降り、義仲討伐、一ノ谷の戦い、藤原氏平定などに戦功あり頼朝の信任は厚かった。史跡については「小袖曽我」参照。


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