三井寺仁王門

謡蹟めぐり  三井寺 みいでら

ストーリー

千満丸の母は清水寺に参籠し人買にさらわれて行方不明になった我が子に再び会えるように祈願していると、ある夜霊夢をさずかり、お告げにより江州三井寺に向かいます。
三井寺では、今夜は八月十五日、名月なので住僧たちは講堂の前庭にでて月見を行っています。その中に、住職を頼って来た幼い人もまじっています。
一方千満の母は物狂の風体となり、ようやくにして三井寺に着きます。そして能力が鐘を撞くとそれを聞いた女は自分も撞こうといい、住僧が止めると、中国の聖人が月に心乱れ鐘をついた故事を延べ、鐘を撞きます。
稚児は住僧にたのんで狂女の故郷をたずねると清見が関の者と答えて、はじめて別れた母とわかります。母も稚児が千満とわかって互に名乗り合い、うれしさに狂気もなおり、母子は手をとりあって故郷に帰り富貴の身となります。(「宝生の能」平成10年8・9月号より)

三井寺   大津市園城寺町  (平19・6記)

天台寺門宗の総本山。三井寺といわれるのは、天智・天武・持統三帝の御産湯に用いられた霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを、開祖智証大師が当寺の厳儀の法水に用いたことから「三井寺」と称されるようになった。長い歴史の上で、再三の兵火にあい焼失したが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、国宝(建物4棟、絵画・彫刻)・重要文化財など貴重な寺宝を有し、屈指の名園とともに、多様な建築美の粋を残す名刹である。
比叡山の山門派に対し、三井寺を本拠の寺門派が対立し、しばしば争いが続いたが、信長の叡山焼討ち後この争いに終止符が打たれた。三井寺は、延暦寺、興福寺、東大寺と共に近畿四大寺と称されていた。

三井寺仁王門 仁王門 三井寺 (平15.5)

金堂

当寺の本堂で国宝。ご本尊の弥勒菩薩は、天智天皇が信仰されていた霊像で秘仏として静かに祀られている。現在の建物は、豊臣秀吉の遺志により北政所が慶長4年(1599)に再建した桃山時代を代表する名建築として知られている。

三井寺金堂 金堂 三井寺 (平15.5)

鐘楼

重要文化財。梵鐘は近江八景の「三井の晩鐘」として宇治の平等院、京都高雄の神護寺と共に日本三銘鐘。
芭蕉の句に「七景は霧にかくれて三井の鐘」がある。

三井の晩鐘 三井の晩鐘 三井寺 (平15.5)

観音堂

西国第14番札所として知られ参拝客が多い。元禄2年(1689)に再建。本尊の如意輪観世音菩薩は、平安時代の作で重要文化財。33年ごとに開扉される秘仏。重要文化財の愛染明王座像や、元禄時代の風俗資料上貴重な絵馬が数多くある。ここにある観月舞台から琵琶湖が一望され、景観が素晴らしい。

観月舞台 観月舞台 三井寺 (平15.5)

閼迦井屋

金堂の裏手にあり重要文化財。天智・天武・持統の三天皇が産湯に用いられたという泉が、今も湧いている。この閼迦井を御井(みい)と呼び三井となったという。泉を守る覆屋は慶長5年(1600)の建立。正面上部には左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻がある。昔この龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたために、困った甚五郎が自ら龍の目玉に五寸釘を打ち込み、静めたと伝えられる。

閼迦井屋2 閼迦井屋 三井寺 (平15.5)

弁慶の引摺鐘

奈良時代の梵鐘。俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰り、三井寺に寄進したと伝えられている。
後、延暦寺との争いで、弁慶が奪って比叡山へ引摺り上げて撞いてみると、「イノー、イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか」と怒って、鐘を谷底へ投げ捨てたとの伝説がある鐘。その時のものと思われる傷痕や破れ目が残っている。

ひきずり鐘2 弁慶の引摺鐘 三井寺 (平15.5)

田原(俵)藤太秀郷関係の謡蹟 (平19・6記)

この鐘は、曲中に「秀郷とやらんの竜宮より、取りて帰りし鐘なれば・・」と謡われており、また「弁慶の引摺鐘」も前述のとおり現在古鐘堂に納められている。
秀郷は藤原一門で、房前の大臣の子孫にあたり田原または俵を称した。私が訪ねた秀郷関係の史跡を紹介のこととする

勢田橋竜王秀郷社、秀郷の像   大津市瀬田

百足退治伝説

昔、近江の国瀬田の唐橋に龍が横たわって、人々は橋を渡ることができなかったが、そこを通りかかった俵藤太は、恐れることなく、龍の背を踏みつけて橋を渡ってしまった。
その夜、ひとりの若く美しい女性が藤太を訪ねてきて、『私は琵琶湖に住む龍神です。昼間橋に横たわっていたのは、私です。最近、三上山の百足に苦しめられ困っています。退治してはいただけませんか?』と。藤太は快諾し、三上山に臨むと、三上山を7巻き半するほどの大百足が現れ、藤太が射たことごとくの矢を、跳ね返してしまう・・・。
藤太が、百足は人の唾を嫌うということを思い出し、矢尻に唾を吐きかけ、南無八幡大菩薩と祈念して射ると大百足に深く付き刺さり、ついには、退治された。
この時に龍王から褒美に授かった、尽きることのない俵から、「俵藤太」と呼ばれるようになり、また、同じく褒美に授かった鐘は三井寺に納められた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、将門を討ち取ることができたという。

瀬田唐橋の近くには「俵藤太 百足退治伝承の地」碑がたち、秀郷を祀る勢田橋竜宮秀郷社があり、橋の中州には藤原秀郷の像が建っている。

三上山 三上山 滋賀県野洲町 (平6.9)

藤太像2 藤原秀郷像 大津市 (平13.11)

百足伝承碑 俵藤太 百足退治伝承と地碑 大津市瀬田 (平13.11)

秀郷社 勢田橋竜宮秀郷社 大津市瀬田  (平13.11)

桔梗塚   取手市米ノ井

秀郷は天慶の乱で平将門を討ったことでよく知られているが、これに関連して桔梗の前の伝説がある。

秀郷の妹とも言われる桔梗の前は、秀郷の間者として将門の妾となり、将門の秘密を内通したことが将門の敗因となったが、秀郷は口を封ずるため桔梗を暗殺したという。茨城県取手市米ノ井に桔梗塚があるが、そこの説明によると土地の娘で将門との間に三人の子をもうけ、薙刀の名人であったが、将門の戦勝を祈願しての帰路この地で秀郷に討たれたともいい、また将門には常に七人の影武者がいたが、桔梗は秀郷にだまされて、本物は「こめかみ」が動くことを教えたので、将門はこめかみを射られて討ち死にした、その後秀郷は桔梗を口塞ぎのため殺したとも伝える。塚には桔梗はありながら花が咲かないのは、桔梗の前のうらみによるという。

桔梗塚 桔梗塚  取手市米ノ井 (平8.9)

唐沢山神社 栃木県田沼町

栃木県田沼町にある唐沢山神社は秀郷を祀り、秀郷の居城唐沢城の本丸址に建てられている。「鉢木」のシテ佐野源左衛門常世はその子孫だという。

唐沢山神社 唐沢山神社 栃木県田沼町 (平5.7)

高安寺、秀郷稲荷    府中市片町

秀郷は後に下野守、武蔵守などに任ぜられ、東京の府中市にある高安寺もその邸址といわれ、境内の秀郷稲荷は秀郷を祀っている。

高安寺 高安寺 府中市片町 (平11.4)

秀郷稲荷 秀郷稲荷 高安寺 (平11.4)

秀郷の墓 富山県小杉町 蓮王寺

富山県小杉町の蓮王寺には五輪の塔があり、秀郷がここで客死したので、その墓と伝えられ ている。

平将門の首塚  千代田区大手町1丁目

秀郷に討たれた平将門の首塚が東京の都心大手町のビル街の真ん中にある。
伝承では、首は平安京まで送られ都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。その中でも最も著名なのが、この首塚である。

俵藤太の墓 秀郷の墓 富山県小杉町 蓮王寺(平9.6)

将門の首塚 平将門の首塚 東京 大手町 (平13.11)

清見寺  清水市興津清見寺町 (平11・3記)

曲中にシテが「我が故郷にては清見寺の鐘をこそ常は聞き馴れしに・・」と謡うがその清見寺は清水市興津にあり、立派な鐘楼が建っている。

寺の始めは古く奈良時代この地に関所が設けられその守護として傍らに仏堂が建立されたのが始めと伝えられる。寺として基礎の固まったのは鎌倉時代後足利尊氏がこの寺を再興した頃という。
境内には見事な庭園や五百羅漢の石像があり、また、高山樗牛の「清見寺鐘声」の碑文、山下清の「清見寺スケッチの思い出」、島崎藤村の「桜の実の熟する時」の小説の一節などを紹介した案内板があって、それぞれ興味をひかれるが、長くなるので、山下清のもののみを紹介する。

「清見寺という名だな このお寺は古っぽしいけど上等に見えるな お寺の前庭のことろを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかな お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか 自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」

清見寺 清見寺 清水市興津 清見寺町  (平9.2)

清見寺鐘楼 清見寺鐘楼 清見寺 (平9.2)


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