句碑歌碑

謡蹟めぐり  姨捨 おばすて

ストーリー

都の者が信濃の国更科の名月を眺めたいと思い、ある秋の日に姨捨山に登って、月の出るのを待っていた。ここに一人の女性があらわれ、今は秋の半ば、今宵の月は定めし美しく面白いことであろうというので、この里の人ならば姨捨の場所を教えてほしいとたずねると、女性は「我が心慰めかねつ更科や」の歌を詠んだ人のことならば、彼方に見える桂の蔭こそその亡き跡であると語り、今なおその執念が残っているものか、何となく物寂しい風情があるなどといい、都の人であるならば、やがて月とともに再び現れて、夜遊をお慰めしましょう、まことは私はその昔捨てられた女であると言いおいて木陰に姿を消してしまった。
やがて月が出て、万里の空はくまなく晴れ、美しい秋の夜となった。都の人も心も澄んで面白く眺めているところに、「あら面白の折からや」と月を愛でながら老女があらわれ、夜もすがらいろいろと身の上を語り、あるいは月を称え、舞を舞いなどしているうちに、秋の夜は早くの明けそめたので、旅人は山を下りて行き、老女はただ一人、またもこの山に捨てられたように寂しく残るのである。(謡本の梗概を意訳)

姨捨て伝説 (平13・5記)

本曲の背景となっている姨捨伝説は狂言により語られるが、原典「大和物語」によりその概要を意訳してみる。

「 信濃の国更科というところに男が住んでいた。若いころに親に死に別れ伯母に養育された。成人して妻を迎えたところ、その妻は伯母が年老いたのを憎み、伯母を捨てよと男にせまる。
男はある月の明るい夜、伯母に向って、「この山の奥に尊い仏がいるので、拝みましょう」と言うと、伯母はたいへん喜んで男の背中に負われて出かけた。男は山の奥に入って高い山の嶺の簡単に降りられそうもない所に伯母を置いて、伯母が呼びかけるのに返事もしないで家に戻った。しかし、ずうっと親のようにして養ってきた伯母のことを思うと悲しくなった。山の上から月が限りなく明るく出ているのを眺めて、一晩中眠れず悲しく思いながら歌を詠んだ。
   わが心慰めかねつさらしなや 姨捨山に照る月を見て
こう詠んで、また山に行き伯母を連れ戻してきた。
それより後姨捨山というようになった。 」

この歌はこの曲な中で二度も謡われ、この曲の中心になっているが、母を棄てた男の嘆きとも、また棄てられた母の嘆きとも解釈できるように思う。

さらしなの里と冠着山(姨捨山) (平13・5記)

曲中に「ここぞ名に負ふ更科や、姨捨山に着きにけり」と言い、「これは此更科の里に住む女にて候」とある。
長野県の戸倉町、上山田町、坂井村の境界線のあたりにある冠着山(1252メートル)は別名姨捨山とも言い、麓からはよく望見される。麓のあたりが更科の里で、縄文時代の遺跡が多くあることで知られ、「さらしなの里、古代体験パーク」が建設整備されている。ここには縄文時代から、この地におばすて伝説が発生したとみられる9世紀前葉の頃までの遺構や暮らしかたが復元展示されていて、タイムマシンに乗って大昔に戻ったような感じになる。
このさらしなの里に立って古い時代の建物、その後ろに立つ姨捨山を眺めていると、年老いた老婆を山へ棄ててきたという姨捨の伝説も真実味を帯びてくるように思われた。

さらしなの里 さらしなの里と姨捨山 長野県戸倉町 (平5.8)縄文時代から平安期の遺構その他が復元展示されている

長楽寺と姨捨山 (平13・5記)

長野自動車道の姨捨SAの近くに長楽寺があり、ここも姨捨山と呼ばれ本曲関連の古蹟はここに集中している。境内には棄てられた姥が石と化したという巨大な姥石があり、また本曲に謡われる桂の木もある。芭蕉はじめ多くの句碑や歌碑も立ち並んでいる。
また、ここは月の名所として知られ、中秋の明月は長楽寺から観賞することになっていて、かってはこの寺の棚田48枚の収穫前の稲を刈り取って、そこに水を張り「田毎の月」を見ながら俳句を詠んだという。現在も長楽寺からの眺望は素晴らしい。

長楽寺 長楽寺 長野県更埴市八幡姨捨 (平5.8) ここの境内が本曲の舞台である

姥石 姥石 長楽寺 (平5.8) 姥の化石と称する巨大な石

桂の木 桂の木 長楽寺 (平5.8) 姥の永眠の地

句碑歌碑 立ち並ぶ句碑や歌碑 長楽寺 (平5.8) 多くの歌人墨客が訪れたことを示す

長楽寺からの眺望 長楽寺からの眺望 長楽寺 (平5,8)昼の眺めも良いが田毎の月も偲ばれる


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