隅田川渡し船都鳥

謡蹟めぐり  隅田川 すみだがわ

ストーリー

都北白河に住んでいた吉田某の妻は、その子梅若丸を人買いにさらわれ、悲しみ嘆いたあまりに狂気となって我が子の行方を尋ね歩くうちに、遂に武蔵の国隅田川のほとりに辿り着きます。
狂女となった彼女を、船頭はなかなか船に乗せようとしません。すると狂女は業平の古歌を思い出し、業平は妻を、今の自分は我が子を尋ねているが、その思いは同じだと嘆きます。船頭は哀れになり狂女を船に乗せ、川向うの大念仏は、一年前人商人に連れられてきた子供が病死したのを人々が不憫に思い回向しているのだと語ります。その子こそ尋ねる我が子の梅若丸と分かり、狂女は泣き伏します。船頭に助けられて岸に上り、念仏を唱えていると、わが子の声が聞こえ、その姿がまぼろしのように現れますが、そのまぼろしは夜明けと共に消え失せ、あとには草の生い茂った塚があるだけでした。(「宝生の能」平成9年5月号より)

木母(もくぼ)寺、梅若塚、梅若塚跡の碑   (平8・11記)

墨田区堤通の木母寺あたりが「隅田川」の舞台といわれる。昔は川幅も広く芦も茂っていたのであろうが、今は寺のすぐそばを首都高速が走り、寺もすっかり近代的な建物になっており、私たちに最も関心のある梅若堂もガラスと鉄筋の覆堂の中に移されて往時の面影を偲ぶのは困難である。ここに至るまでの経緯や、梅若塚の由来を記した資料をこの寺で入手したので、要点を紹介する。
また、平成元年に梅若塚再興100年を記念して作成された、古い梅若塚の写真つきテレホンカードを入手することが出来たので掲げてみる。覆堂の中に移された現在、このような写真を撮ることは困難のためである。

木母寺 木母寺 墨田区堤通2丁目 (平3.1)

梅若塚木母寺 梅若塚 木母寺境内 (平3.1) ガラス張りの覆い堂の中に納められている

テレカ梅若塚 梅若塚 (再興100年記念テレカ) 覆い堂の中に移された現在、このような写真を撮ることは困難である

寺のうつりかわり

この寺の起源は平安中期にさかのぼる。平安中期の貞元元年(976)、僧の忠円によって梅若丸の墓所が築かれ、翌年にいたりそのそばに念仏堂が建立されたのが起源といわれる。当初梅若寺と称されたが慶長年間に前関白の近衛信尹が参拝した時梅の字を分けて木母寺と改名された。
明治維新とともに幕府の保護を失い廃寺となり、寺の堂舎は取り除かれて跡地には「梅若神社」が作られた。明治21年仏寺復帰の願いが実現され木母寺が再興される。昭和20年4月、米軍機の空襲を受けて寺は焼失したが、梅若堂は無数の弾痕を受けたものの焼失を免れる。
昭和51年、都市再開発法に基づく防災拠点建設事業の実施により現在の境内に移転する。木造の建造物の存置は許されずガラス張りの覆堂の中に納められることとなった。

梅若塚の由来(木母寺略誌による)

「 梅若丸は、吉田少将惟房卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いにあい、逃れて大津に至り信夫藤太という人買いに欺かれ東路を行き隅田川原に至る。
旅の途中から病を発しついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元年3月15日なり。
いまはの際に和歌を詠ず。
      尋ね来て問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと
このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたま此処に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標となす。
あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔いおりしに母人、わが子の行方を尋ねあぐみ、自ら物狂わしき樣してこの川原に迷い来り、柳下に人々の群れおり称名してありしに、塚の中より吾が子の姿幻の如く見え言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく浅茅の原の露と共に消え失せぬ。
夜あけて後、阿闍梨にありしことども告げてこの地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永くその霊を弔いける。 」

もと梅若堂のあった所は団地の中に梅若公園となっていて、「都旧跡 梅若塚」の碑が建ち、わずかに塚の跡が残されている。

梅若塚跡碑 梅若塚跡の碑 墨田区堤通2丁目 (平3.1)

妙亀塚    (平8・11記)

このあたりはかって物淋しい原野で浅茅ケ原と呼ばれ奥州街道が通じていたという。
子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若丸の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵を結んだという。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしたものという。

妙亀塚 妙亀塚 台東区橋場1丁目 (平3.1)

浅茅ケ原址(姥ケ池址)         (平8・11記)

曲中最後に謡われる「浅茅ケ原」の地名については、諸説あり奈良の春日野、高槻市成合の金竜山の麓などに同じ地名がある由。東京は浅草の観音様近くのこのあたり一帯も往時は浅茅ケ原と呼ばれた原野であった。ここに一人の老婆が住んでおり、旅人を殺しては所持品を奪っていたが、これを悲しんだ娘が身代わりになって殺されたことから、老婆は池に身を投げたという伝説があり、その池址に「姥池の旧跡」の碑が建っている。

浅茅ケ原址 浅茅ヶ原址(姥ケ池址) 台東区花川戸 花川戸公園 (平3.1)

山の宿渡し跡の碑      (平8・11記)

前記姥ケ池址の近く隅田公園の一角に「山の宿渡しの碑」がある。近くの説明板にも渡船開設年代は不明なるも江戸中期以降の開設ではないかと記されており、直接本曲の渡しとは関係ないと思うが、近くに妙亀塚があり、浅茅ケ原があり、対岸には梅若塚があることを考えると、このあたりが曲中の渡しであっても不思議ではないと思い掲げた。

山の宿渡し址碑 山の宿渡し跡の碑 台東区花川戸 隅田公園 (平3.1)

隅田川と都鳥と言問橋と      (平8・11記)

曲中に業平がこの渡りで詠んだという
    名にしおはばいざこと問はん都鳥 我が思ふ人はありやなしやと
の歌が引用されているが、隅田川に沿った公園を歩いていると都鳥(かもめ)が群れ飛んでいるのが見られた。都鳥の遥か向こうに見えるのはこの歌から名付けられたという言問橋と思われる。
川岸はコンクリートで護岸され、鉄の橋や近代建築が見えるのは味気ないが、目を閉じれば緑豊かな船着き場から渡し舟が漕ぎだし、都鳥がその周りに群れているのが目に浮かんでくるようである。ともあれ都鳥がこのように沢山見られるのは嬉しいことである。また川辺の欄干に渡し舟が描かれており、都鳥がとまっているのも楽しい。

隅田川都鳥言問橋 隅田川と都鳥と言問橋と 台東区 (平8.1) 隅田川に都鳥(かもめ)が群れ飛びその彼方に言問橋が見える

隅田川渡し船都鳥 隅田川と渡し舟と都鳥と 台東区 (平8.1) 隅田川辺の欄干に渡し舟が描かれており、都鳥がとまっている

石浜神社、都鳥歌碑   (平8・11記)

妙亀塚のあたりから隅田川をもう少し遡ると石浜神社がありその境内に都鳥の歌碑がある。前項に述べた業平の歌が刻まれており、下に小舟の絵が添えられている。
この石浜神社の対岸に木母寺がある。従ってシテはこのあたりから渡し舟に乗って現在隅田川神社のある水神の森あたりに上陸し、梅若塚に案内されたとも想像できる。現在石浜神社から対岸に見えるのは延々と続く堤防と首都高速の長城のような道路のみである。

石浜神社 石浜神社 荒川区南千住3丁目 (平3.1)

都鳥歌碑 都鳥歌碑 石浜神社 (平3.1) 業平の歌 名にしおはばいざこと問はん都鳥 我が思ふ人はありやなしやと が刻まれ、下に小舟の絵が添えてある

古隅田川   (平8・11記)

「隅田川」の舞台は東京ではなく、埼玉県春日部市であるという説がある。
埼玉県春日部市の東武線春日部駅の少し北に今でも「古隅田川」と称する小さな川が流れている。このあたり、このほかにも「古利根川」「元荒川」の名の川も流れており、昔から幾多の川の流れの変遷があったことを物語っている。往時このあたりを大きな隅田川が流れていたとすれば、曲中にいうように武蔵の国と下総の国を分けることになるので、ここが本曲の舞台というのもうなづけ、これを裏付ける史跡も多い。

古隅田川 古隅田川 春日部市浜川戸 (平3.1)

満蔵寺、梅若塚、梅若堂、子育地蔵堂、宝生九郎手植えの柳
今井泰男手植えの柳、乾了元の墓     (平8・11記)

古隅田川の近くに満蔵寺というお寺がある。このあたりまだ水田が残っていて東京の木母寺付近とは全然違った昔の雰囲気を残している。
寺の入口の朱塗りの門が目をひくが、その右側に梅若塚の碑と梅若堂がある。この寺に残る「梅若塚縁起」によると、木母寺略史とほぼ同様のことが記されているが、梅若丸の母の最後のことが詳しく語られているのでその部分を抜粋してみる。

「 御母花子前は、梅若の行方を尋ねて此処に来りて、念仏の声を聞きて、なにぞと里人に問ひけるに、云々と答へければ、これぞ我が子梅若丸ならんと泣きかなしぶ事限りなし。かの僧、祐閑のもとにまかりて、一周の忌をとぶらひ、直に師として薙髪して尼となり名を妙亀と改め、小堂をいとなみて、梅若の守本尊の地蔵を安置して、亡きあとそとぶらひける。或る時、妙亀、新方と春日部との境なる一本杉のもとに一つの池あり、そこに、都鳥のむつまじく遊ぶをみて、
    くみしりてあわれとおもへ都鳥 子に捨てられし母の心を
と詠じけるほどに池上に梅若の姿の顕はれければ、おもはず池に飛び入りて、この妙亀もうせ給ひにき。よりてこの池を妙亀池とも鏡の池とも云ふ。祐閑はまた、この二人の為に深く仏心をこらして読経しけるが、一夜の霊夢に、童形の人来りて云ふ。我が守りの地蔵尊は、吉田家伝来の黄金仏にて、安産疱瘡を守護し、乳不足のものは供米をいただき、隅田川の水にて粥にして与へなば足らずといふことなしといふに夢さめぬ。祐閑は、いと不思議なることとおもひ、是れ則ち梅若丸なりとて、いよよ尊くおもふ余りに、祠をいとなみて、隅田山梅若山王権現と崇敬し奉るなり。・・・ 」

鏡が池は東武野田線の八木崎あたりにあったというが現在は住宅地になり池は見られなくなってしまったという。
地蔵堂の長年の年月を経て荒廃したのを、信徒の方々の熱誠により昭和57年再建され、子育地蔵尊として人々の信仰を集めている。

満蔵寺 満蔵寺 春日部市新方袋 (平3.1)

梅若塚満蔵寺 梅若塚 満蔵寺 (平4.4)

梅若堂満蔵寺 梅若堂 満蔵寺 (平3.1)

子育て地蔵 子育地蔵 満蔵寺 (平3.1)

また塚の近くには宝生流第17代宗家宝生九郎手植えの柳、今宝会今井泰男手植えの柳がある。また境内には350年を経た天然記念物の「お葉つき銀杏」がある。
また、境内墓地には乾了元先生の墓がある。この方は宝生流教授嘱託会の創設の頃から活躍された方で、埼玉支部長も務められ、満蔵寺、梅若遺跡保存に力を尽くされた方である。埼玉支部では毎年この寺で例会を開催、その時は必ず「隅田川」を謡っているとのこと、私も村本脩三さんから声をかけていただき、一度だけ参加させていただきこの墓にお詣りする機会を得た。墓碑には次のように刻まれている。

 「 宝生流 乾了元先生 名蹟梅若塚顕彰に全魂を傾け隅田川を謡い続け
             とこしえにここに眠る   宝生流教授嘱託会 」

宝生九郎手植えの柳 宝生九郎先生手植えの柳 満蔵寺 (平3.1)

今井康男手植えの柳 今井泰男先生手植えの柳 満蔵寺 (平3.1)

乾了元先生の墓 乾了元先生の墓 満蔵寺 (平4.4)

春日部八幡神社、都鳥の碑  (平8・11記)

春日部市の八幡神社入口左側に建てられた碑は都鳥の碑と呼ばれている。業平のことを後世に遺そうと江戸末期の嘉永6年5月、粕壁宿の名主関根孝煕が千種正三位源有功に依頼し由緒を碑にあらわしたものという。碑には次のように記されている。
「 隅田川はむさしと下つふさの国の界なり陸奥に往かふ道にあたる所を春日部のうまやといふ在原の中将のいさこととはん都鳥とよめりし跡ながらふちとかはりて今は小川となりしが元弘のとしさがみの国鶴岡の銀杏の一えだ飛来りてひと夜のほどに生いたちけり
其神木のもとに鎮りいます神のみいつのいやましに幸い給へるみやしろのあたりぞ
 いざ舟にのれといいけん昔の名残なりけし  正三位 有功
 とはれつるあとたにとめよ都鳥 むかしはとほきわたりなりとも
 神垣にたてる一きをためしにて 千代に栄えるん春日部の里  」

春日部八幡 春日部八幡神社 春日部市浜川戸 (平3.1)

都鳥の碑春日部 都鳥の碑 春日部八幡神社 (平3.1)


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