謡蹟めぐり  三笑 さんしょう

ストーリー

晋の恵遠禅師は廬山の麓で、十八人の賢人らと共に白連社を結んで西方浄土を念じ、三十余年の間隠道生活を送って虎渓を出ませんでした。あるとき陶淵明と陸修静の二人が禅師の庵室を訪れると、心を許した友とて招き入れ、三人は廬山の瀑布を眺めながら盃を交わしました。そうして、陶淵明が県の長官になって八十日余りで官を辞し、酒を愛し自然を友として詩境三昧にふけっていること、また陸修静は神仙の術を極めて陸道士と呼ばれましたが、浮世の俗塵を避けて隠居生活を送っていることなどを語らいながら、禅師は立って楽を奏し、酔いに乗じて辺りをそぞろ歩いていました。するといつしか三人は虎渓の橋を踏み越えていました。この橋こそ禅師がかねて渡るまじと誓っていたので淵明が、禁足を破り給うたかというと、禅師は始めて虎渓を出ていることに気付き、三人は手を打ってどっと大笑いしました。(「宝生の能」平成10年11月号より)

慧遠禅師、陶渕明、陸修静      (平14・11記)

登場人物三名がどのような方であったか、広辞苑やインターネットなどで調べてみた。

慧遠禅師

廬山の慧遠は、中国の東晋代の僧である。俗姓は賈氏、山西省雁門の人。若くして儒家・道家の学問に通じたが、21歳のとき太行恒山で道安と出会い、その弟子となった。365年、道安に伴われて四百余人の同門の人びととともに襄陽に移り、のちに道安と別れて南下し、以後没するまで廬山の東林寺に住した。この間、僧枷提婆を迎えて「阿毘曇心論」4巻などの訳出を請い、長安に来た鳩摩羅什と親交を結び、123人の同志とともに念仏の結社(白蓮社)を結び、桓玄に反論して「沙門不敬王者論」を著した。廬山の慧遠教団は江南の仏教の中心として戒律を守り、中国仏教のあるべき道を提示したといってよかろう。

陶渕明

六朝時代の東晋の詩人。江西のひと。名は潜または渕明。下級貴族の家に生まれ、不遇な官途に見切りをつけ、41歳のとき彭沢県令を最後に「帰去来辞(帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす、なんぞ帰らざる)」を賦して故郷の田園に隠棲。平易な語で田園の生活や隠者の心境を歌って一派を開き、唐に至って王維・孟浩然など多くの追随者が輩出。散文作「五柳先生伝」「桃花源記」など。(365〜427)

陸修静

東晋末〜南朝宋の道士。字は元徳、号は簡寂先生、諡号は高道処士、呉興(浙江省)東遷の人。南朝宋の明帝が467年に都の建康の北郊に崇虚館を建てて迎えたことは有名。道鏡史における陸修静のおもな功績は
 1 「三洞経書目録」の作成
 2 「霊宝経」の編纂
 3  天師道の改革
の三つがあげられる。「三洞経書目録」とは、明帝の勅によって献上された最古の道教経典綜合目録である。この目録が作成されて以後、現在に至るまで道教経典の分類に、洞真、洞玄、洞神の三洞説が用いられている。第二の「霊宝経」とは、南朝宋の時代に仏教の大乗思想を摂取して、道教の大乗経典としてつくられた一群の経典であり、陸修静はこれらの「霊宝経」を校定編纂するとともに、元始(天尊)系と仙公(葛玄)系の二系統に分類整理した。第三の天師道の改革では、腐敗堕落した天師道教団を改革し、戒律と儀礼の整備を行った。

陶渕明の詩より   (平14・11記)

陶渕明のことは前述の「帰去来の辞」とか、次に掲げる「盛年重ねて来たらず・・」などの詩を通じて、本曲にも出ているように「彭沢の令となり、官に在ること八十余日、印を解いて去るとかや」で役人生活をやめて田園に帰り悠々自適の生活を送ったくらいの認識しかもっていなかった。
今回彼の詩をいくつか読んでみて大いに感ずるところがあった。と言っても、自分自身はとうとう郷里の田園には帰らなかったが・・いくつか一部分を引用してみよう。

雑詩

盛年不重来   盛年 重ねて来らず
一日難再晨   一日、再び晨なり難し
及時當勉励   時に及んで当に勉励すべし
歳月不待人   歳月は人を待たず
(意味)
血気盛んな時代は、二度とは来ないし
一日のうちに、朝は二度はない
時機をのがさず、努めて楽しむべきだ
歳月はどんどん過ぎて、待ってはくれないから


游斜川  斜川にあそぶ

且極今朝楽  しばらく今朝の楽しみを極めよ
明日非所求  明日は求むる所に非ず
(意味)
明日は明日の風が拭く
今日の楽しみを尽くそう


帰薗田居   薗田の居に帰る

晨興理荒穢  晨におきて荒穢を埋め
帯月荷鋤帰  月を帯び鋤をにないて帰る
(意味)
朝早く起きて荒れ地の雑草を除いて終日働き
夕方には月に照らされながら鋤を肩にして帰ってくる


飲酒

採菊東籬下  菊を採る 東籬の下
悠然見南山  悠然として 南山を見る
(意味)
東隣のかきねのもとに咲いている菊を一枝手折り
ひょいと頭をあげた拍子にゆったりとそびえている南山が目に映る

廬山、虎渓橋、東林寺、陶淵明の墓  (平19・2記)

小倉正久著「謡曲紀行」(白竜社刊)に本曲の古蹟が写真とともに詳述されているのでその所在地のみを紹介させていただく。

廬山・・江西省北部にあり、北を長江、東から南を翻陽湖と三面が水に臨む。

虎渓橋・・江西省修水県廬山、東林寺の山門前の虎渓というせせらぎにかかる橋で、本曲に述べられている逸話の古跡である。

陶淵明の墓・・九江市外、九江県馬回嶺郷面陽山。


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