義仲銅像

謡蹟めぐり  兼平3 木曽義仲関係謡蹟 その2

護國八幡宮、源義仲銅像   (富山県小矢部市埴生)

宝生流には「木曽」という曲はないが、三読物の一つとして「願書」という曲があり、義仲が出陣に際し奉納した願書をその内容としている。三読物とは、「安宅」の「勧進帳」、「正尊」の「起請文」とこの「願書」のことである。「願書」は義仲に関する曲ではあるが、特に重く扱われているので、このシリーズで単独の曲として取り上げることはせず、便宜上ここでとりあげることとする。

「願書」の内容は「何々帰命頂礼八幡大菩薩は、日域朝廷の本主・・・平相国といふ者あって、四海を掌にし、萬民を、悩乱せしむ、これ、仏法の仇・・・希はくは、神明納受垂れ給ひ、勝つ事を究めつつ、仇を四方に退け給へ・・・」と、かなり長い名文である。
神社の鳥居や本殿には「寿永二年木曽義仲公祈願 重要文化財社殿桃山建築」と書かれた石碑や木札が見られ、境内には立派な「源義仲の銅像」があり、この八幡宮と義仲のつながりの深さを思わせる。案内には
「 護國八幡宮  当社は、奈良時代に、宇佐八幡宮の御分室を勧請したのに始まり、天平時代に、越中の国守大伴家持は国家安寧を祈願したと伝えられる。寿永2年(1183)5月、木曽義仲は、倶利伽羅山にて平維盛の大軍と決戦するに当り、当社に戦勝の祈願をこめて著しい霊験があった。(平家物語、源平盛衰記等に詳しい。)以来、武田信玄、蓮沼城主遊佐氏、佐々成政、豊臣秀吉等、戦国武将の信仰が篤く、江戸時代には、加賀藩主、前田侯の祈願社となった。社殿は、大正13年『国宝』となり、現在は『国指定重要文化財』となっている。 」とある。

護国八幡宮 護国八幡宮 富山県小矢部市埴生 (平2.10) 木曽義仲は当社に戦勝を祈願した、祈願の内容は「願書」に詳しい

義仲銅像 源義仲銅像 護国八幡宮 (平2.10) 境内に立派な銅像が建つ

倶利伽羅合戦古戦場 (富山県小矢部市 倶利伽羅県定公園)

源平合戦の古戦場も今は倶利伽羅県定公園となっている。俳聖松尾芭蕉もこの地を通ったとのことで、朝日将軍とうたわれた木曽義仲の末路を涙して詠んだといわれる
     義仲の 寝覚の山か 月かなし
の句碑も建てられている。古戦場に立って800年の昔を偲んでみた。

数々の碑が建っているが、一番立派なのは倶利伽羅源平供養塔である。傍らに刻まれた建立の趣旨に往時の戦闘の有様が名文で刻まれているので、ぜひ読んでいただきたい。(一部読めないところは○○で示した)

「           倶利伽羅源平供養塔建立の趣旨
この倶利伽羅山は源平の古戦場として広く世に知られている。寿永2年源氏討伐のため一門の部将を率い北進してきた平維盛の大軍を、以仁王の令旨を奉じ破竹の勢を以て信濃越後を席巻し、都へ上らんとする源義仲が興亡を賭けた遭遇戦であった。
5月11日般若野より進んだ義仲は埴生に本陣を置き○○砺波山麓に待機し、維盛は倶利伽羅不動より猿が馬場一帯を占拠し、幔幕を張り楯を並べて陣をはった。夜半源軍は迂回隊の鬨の声を合図に火牛を駆使して総攻撃を開始した。突如静寂は破れ喚声怒号全山に谺し山頂は火の海と化し、炎は堂塔伽藍を舐め尽くし阿鼻叫喚の修羅場となった。
不意を突かれた平軍は狼狽の余り進む所を失い、我れ先にと倶利伽羅谷へ雪崩れ落ち落命する者その数を知らず。翌12日拂曉平軍の一部逆襲に出たが、勝敗は既に決し焼け落ちた堂塔は余燼にくすぶり、累々たる屍、断末魔の呻き正に地獄絵図さながらである。倶利伽羅谷は後に地獄谷と称せられてその渓流は○○と呼ばれ、当時の凄惨な樣相を今に伝えている。この合戦で平軍の部将平為盛は捕えられ侍大将等一族郎党を失い、源氏の死者と合せて其数凡そ一萬八千余といわれている。
爾来星霜を経ること約八百年、国破れて山河あり、栄枯盛衰常ならぬつわ者共の夢の跡、いまは只老松松柏の青嵐にまかすのみ。○○を弔うに由なく歳月を経たが、その機漸く熟し昭和48年5月、小矢部市の有志相集い地下の霊を弔う為、この地に源平供養塔を建立せんと発願し、各自拠金すると共に広く関係方面に寄進を懇請した。
幸に大方の有志各位の賛助を得て所期の五輪塔を建立し、本日茲に開眼式に併せて慰霊の法要を営み、永くその菩提を弔うことの出来ることは誠に同慶の至りである。
 昭和49年8月17日  倶利伽羅源平供養塔建立委員会 会長 前田次三郎  」

倶利伽藍供養塔 倶利伽羅源平供養塔 富山県小矢部市 倶利伽羅県定公園 (平 2.10)
立派な供養塔が建てられており、その傍らに刻まれた建立の趣旨に往時の戦闘の有様が名文で刻まれている。

近くには源平倶利伽羅合戦本陣跡碑、角に松明を付けた火牛像、芭蕉塚、源平合戦慰霊之地碑、源氏ケ嶺碑、源平盛衰記抜粋碑、など数々の碑が残っていて往時を偲ばせてくれる。

倶利伽藍本陣跡 源平倶利伽羅合戦本陣跡 倶利伽羅県定公園 (平 2.10)
このあたりに平家の本陣があり、総大将平維盛を中心に薩摩守忠度、上総判官忠綱等の部将が集って軍議を開いた所といわれる。

火牛 角に松明を付けた火牛の像 倶利伽羅県定公園 (平 2.10)
このような牛が4,5百頭平家の陣に襲いかかった。

源平合戦慰霊の地碑 源平合戦慰霊之地碑 倶利伽羅県定公園 (平 2.10) この供養塔はかなり古いもののようである。

源氏の峰 源氏ケ嶺 倶利伽羅県定公園 (平 2.10)
平家本陣から少し離れた小高い所が源氏の嶺がある。このあたりから平家軍に攻撃をしかけたのであろうか。

源平盛衰記碑 源平盛衰記抜粋碑 倶利伽羅県定公園 (平 2.10) 次に掲げる全文が刻まれている

この碑については次のような思い出がある。
私の属している教授嘱託会では毎年謡曲名所めぐりを実行しているが、平成10年には「北陸路の旅」ということでこの地も訪ねた。当時私は名所めぐりの担当をしていたので、ガイドブックを作成して参加者にお渡ししていた。その中に(参考)として、源平盛衰記碑に刻まれている全文を小さな活字で掲載しておいたのであるが、その時のバスガイドさんが、小さな活字のものを拡大コピーして持参しており、古戦場に向かうバスの中で読み上げてくれた。難しい文章であるが名文である。若いガイドさんが大きな声で読み上げるとまた格別の味わいがあり、乗客一同拍手大喝采であった。私にとっては思い出深い文章なので、ここでもその全文を掲載させていただく。

 源平盛衰記抜粋碑全文

「五月十一日の夜半にも成りにけり  五月の空の癖なれば 朧に照らす月影 夏山の木下暗き細道に 源平互に見え分かず 平家は 夜討もこそあれ 打ち解け寝ねべからずと催しけれども 下疲れたる武者なれば 甲の袖を片敷き 冑の鉢を枕とせり   源氏は 追手搦手様々用意したりける中に 樋口次郎兼光は 搦手に廻りたりけるが 三千余騎 其中に太鼓法螺貝千ばかりこそ籠めたりけれ 木曽は追手に寄せたりけるが 牛四五百匹取集めて 角に松明結付けて 夜の深くるをぞ相待ちける 去程に樋口次郎 林 富樫を打具して 中山を打上り 葎原へ押し寄せたり 根井小弥太二千余騎 今井四郎二千余騎 小室太郎三千余騎 巴女一千余騎 五手が一手に寄合せ 一万余騎 北黒坂 南黒坂引廻し 鬨を作り太鼓を打ち法螺を吹き 木本萱本を打ちはためき 蟇目鏑を射上げて とゞめき懸りたれば 山彦答へて幾千万の勢共覚えざりけるに 木曽 すはや搦手は廻りける 鬨を合せよとて 四五百頭の牛の角に松明を燃して 平家の陣へ追入れつゝ  胡頽子木原 柳原 上野辺に控へたる軍兵三万余騎鬨の声を合せ をめき叫び黒坂表へ押寄する 前後四万余騎が鬨の声 山も崩れ岩もくだくらんと夥し 道は狭し 山は高し 我先々々と進む兵は多し 馬には人 人には馬共に圧しに押されて 矢をはげ弓を引くに及ばす 打物は鞘をはづしかねたり 追手は搦手に押合せんと攻上る 搦手は追手と一にならんとをめき叫ぶ 平家は両方の中に取籠められたり 軍は明日ぞあらんずらんと 取延べて思ひける上 如法夜半の事なるに 俄かに鬨を造り懸けたれば こは如何せんと東西を失ひ周章て騒ぎ 弓取る者は矢をとらず 矢をば負へども弓を忘れ 甲を著て冑をきず 太刀一には二人三人取付き 弓一張には四五人つかみ付けり 馬には逆に乗って後へあがかせ 或は長刀を逆に突いて 自ら足を突切って立ちあがらざる者も有りければ 踏殺され 蹴殺さるる類多し 主の馬を取ては主を忘れ 親の物具を著ては親を顧みず 唯我先々々にと諍へども 西は搦手なり 東は追手なり 北は岩石高くして 上るべき様なし 南は深き谷なり 下すべき便なし  闇さはくらし 案内は知らず 如何すべきかと方角を失へり  此山は 左右は極めて悪所なり 後は加賀 御方なり 三方は心安く思ひつるに 後陣より敵のよせける怪しさよと思ひければ 只云事とては 打破って 加賀国へ引けや者共々々と呼りけれ共 搦手雲霞の如くなり 追手上が上に攻重りければ 先陣 後陣に押しあまされて 道より南の谷へ下る 爰に不思議ぞ有りける 白装束したる人三十騎ばかり南黒坂の谷へ向って 落せ殿原 あやまちすなあやまちすなとて 深谷へこそ打入れけれ 平家是を見て 五百余騎連いて落したりければ 後陣の大勢是を見て 落足がよければこそ先陣も引返さざるらめとて 劣らじ劣らじと 父落せば子も落す 主落せば郎等も落とす 馬には人 人には馬 上が上に馳せ重なって 平家一万八千余騎 十余丈の倶利伽羅が谷をぞ馳埋みける 適々谷を遁るゝ者は兵杖を免れず 兵杖を遁るゝ者は皆深谷へこそ落入りけれ  前に落す者は今落す者に踏殺され 今落す者は後に落す者に押殺さる 斯様にしては死にけれども 大勢の傾き立ちぬる習にて 敵と組んで死なんと云ふ者は一人もなし  去程に夜明け日出づる程に成りにけり 三河守知度は 赤地錦の直垂に紫すそごの甲に黒鹿毛なる馬に乗って 西の山の麓を北に向って 五十余騎を相具して 声をあげ鞭を打って敵の中へ駈け入りければ右兵衛佐為盛 魚綾の直垂に萌黄匂の甲に 連銭葦毛の馬に乗って 同じく連いてかけ入りけり 此両人 共に容貌優美なりける上 甲の毛 直垂の色日の光に映じて かがやくばかりに見えければ 義仲是を見て 今度の大将軍と覚えたり 余すな者共とて 紺地の錦の直垂に 黒糸縅縅の甲に 黒き馬にぞ乗ったりける 眉の毛逆に上って目の尻悉くにさけたり 其体等倫に異なり 二百余騎を卒して 北の山の上より落し合せて 押囲み取籠めて戦ひけり 知度朝臣は馬を射させて はねければ下立ちたりけるを 岡田冠者親義落合せたり 知度太刀を抜いて冑の鉢を打ちたりければ 冑ぬけて落にけり 二の太刀に頚を打落してけり 同太郎重義 続いて落重なる 知度朝臣の随兵二十余騎 おり重って彼を討せじと中にへだゝらんとす 親義が郎党三十余騎 重義を助けんとて落合ひつゝ互に戦ひけり 太刀の打違へる音耳を驚かし 火の出づる事電光に似たり 爰にてぞ 源平両氏の兵数を尽して討たれにけり  」

巴塚、葵塚  (小矢部市埴生)

巴塚、葵塚は倶利伽羅古戦場から少し離れた所にある。池のほとりを過ぎ雑木林の中の一人やっと通れるほどの道を進むと、林の中にポツンと一つだけ「巴塚」と書かれた細長い石の塔が見つかる。なんとも侘しい限りである。葵塚も少し離れたところにある。
巴御前は義仲に別れてこの地に戻り、このあたりで亡くなったのでこの塚があるのかと思っていたが、案内板の説明によるとそうでもないらしい。
「     巴塚と葵塚
木曽義仲の愛妾に、巴御前と葵御前の二人がおり、ともに大力無双、男に勝る勇者だった。寿永2年(1183)5月11日の砺波山の合戦に奮闘した。
葵は、この合戦で討死して、この地に葬られたが、巴は義仲の部将今井兼平の妹で戦功があり、義仲が粟津(滋賀県)で戦死した後、和田義盛に嫁ぎ朝比奈三郎義秀を生み、建保元年、朝比奈滅亡後越中の福光城主、石黒光弘に寄食し、剃髪して兼生と号し、宝治元年没したという。
   小矢部市・小矢部市観光協会  」

巴塚富山県 巴塚 小矢部市埴生 (平2.10)

葵塚富山県 葵塚 小矢部市埴生 (平2.10)

手取川  (石川県)

倶利伽羅の合戦で大敗を喫した維盛軍は加賀の篠原に軍を集め、やがて篠原の合戦となるが、この関係の古蹟は「実盛」の項で紹介した。義仲勢は篠原へ逃げる維盛軍を追って手取川に至るが、この川を手に手を組んで渡河したところから、この名がつけられたという。手取川は白山に源流を発し、金沢市の少し南の美川町で日本海に注ぐ石川県第一の大河である。義仲軍が渡ったのは河口に近いところと思うが、ここでは白山に近い吉野谷村、鳥越村の境を流れる手取峡谷の写真を掲げてみる。

手取川渓谷 手取川渓谷 石川県吉野谷村、鳥越村 (平9.7) 義仲軍は手を組んでこの川を渡り都へ攻め上った

宇治川先陣の碑  (宇治市橘島)

京都に入った義仲は官位を受けて遂に征夷大将軍に進み、朝日(旭)将軍と呼ばれた。しかし、その粗野で乱暴な行動が都の人に容れられず、後白河法皇も遂に頼朝に義仲追討の密勅を下した。頼朝の命を受けた範頼、義経の軍が早くも近江に進攻、義仲軍は散々に敗れた。梶原源太景季と佐々木四郎高綱の宇治川先陣争いはこの時の宇治川の合戦である。平等院近くの宇治川の中にある橘島に「宇治川先陣の碑」が建てられている。
義仲は主従7騎となって粟津の原に向い、兼平の軍と合流したけれども、巴や兼平の奮戦も及ばず、巴は義仲の厳命で落ちのび、兼平は義仲とただ2騎となってついに討死する。時に義仲31歳、巴29歳であった。

宇治川先陣碑 宇治川先陣の碑  宇治市橘島 (平8.4) ここで梶原景季と佐々木高綱は先陣を争った

義仲寺、義仲公の墓、巴塚    (大津市馬場)

このあたり琵琶湖に面した景勝の地である。旧東海道に沿い、昔は粟津ケ原といい木曽義仲はこの地で討死した。
この寺でいただいた「義仲寺案内」を抜粋してみよう。

「 治承4年(1180)、義仲公は以仁王の令旨を奉じて、信州に平家討伐の挙兵をし、寿永2年5月(1183)、北陸路に平家の大軍を打ち破り、7月京都に入られた。翌寿永3年正月20日、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた、範頼、義経の軍勢と戦い、利あらず、この地で討死さる。享年31歳。
その後、年あって、眉目美しい尼僧あり、粟津ケ原の公の御墓所のほとりに庵を結び、日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うに『われは名もなき女性』と答えるのみである。この尼こそ、まぎれもなき義仲公愛の巴御前の後身だった。尼の歿後、この庵は『無名庵』と称えられ、あるいは巴寺といい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれた由は、すでに鎌倉時代後期弘安頃の文書に見える。 」

境内には義仲の墓、巴の塚があり、山吹の墓も大津駅前にあったのを駅の拡張工事にともない、ここに移されたという。

義仲寺 義仲寺  大津市馬場 (平 3.4) このあたり、昔は粟津ケ原といい木曽義仲はこの地で討死した。

義仲墓義仲寺 義仲公の墓 義仲寺 (平 3.4) 境内には義仲の墓がある。

巴塚義仲寺 巴塚 義仲寺 (平 3.4) 境内には巴の塚もある。

山吹墓義仲寺 山吹の墓 義仲寺 (平13.11) 山吹の墓もここに移された。

木曽義仲首塚  (京都市東山区)

木内誠二氏の「謡曲ゆかりの古蹟大成」に京都八坂神社に近い民家の入口に義仲の首塚があるとの記事を頼りに探してみたがなかなか見つからない。八坂神社前の交番でお巡りさんに聞いてみた。若いお巡りさんでは分からず年配の方に電話で照会してようやく見当がついたようだ。教えていただいた道を辿るがなかなか見つからない。諦めて高台寺、霊山観音を参詣しての帰途偶然に見つけた。すぐ近くをうろうろしていたのだ。
この塚は病のため京都に残されていた義仲の家来の一人が、主人の首をここに葬った由で、京都に残る義仲唯一の遺跡といわれる。

義仲首塚 木曽義仲首塚  京都市東山区 (平 6.9)
この塚は病のため京都に残されていた義仲の家来の一人が、主人の首をここに葬った由で、京都に残る義仲唯一の遺跡といわれる。

永福寺、朝日観音堂 (長野県塩尻市塩尻)

永福寺境内にある朝日観音堂は義仲の後胤が義仲の供養のため建立したと伝えられる。案内板によると
「 永福寺は木曽義仲ゆかりの地で元禄15年(1702)、現在地に伽藍と義仲信仰の馬頭観世音を本尊とする朝日観音堂を建立したがその後焼失した。・・・ 」とある。

永福寺 永福寺 長野県塩尻市塩尻 (平 6.10)
永福寺は木曽義仲ゆかりの地で、義仲信仰の馬頭観世音を本尊とする朝日観音堂がある。

朝日観音堂 朝日観音堂 永福寺 (平 6.10) 境内にある朝日観音堂は義仲の後胤が義仲の供養のため建立したと伝えられる。

木曽義仲奉納の鎧 愛媛県大三島町 大山祇神社

大山祇神社は瀬戸内海のかかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央に位する大三島に鎮座する神社で、天照大神の兄神である大山積大神を祀る。神社には戦勝の御礼に奉納された甲冑、刀剣その他の美術品が数多く収蔵され、武具類は全国の国宝、重要文化財の八割を有するという。木曽義仲奉納の鎧も重要文化財に指定され展示されている。

願慶寺、山吹手植えの紅梅 (滋賀県マキノ町海津)

琵琶湖北岸のマキノ町にあるこの寺は、義仲の愛妾山吹御前がここに逃れ隠棲したという。ここで義仲の遺児義隆を産み、後に剃髪した。この寺の堂塔は義隆が建立したもので、境内には山吹手植えの紅梅がある。

願慶寺 願慶寺 滋賀県マキノ町 (平10.4) 義仲の愛妾山吹隠棲の所という

山吹手植えの紅梅 山吹手植えの紅梅 願慶寺 (平10.4) 今のは何代目かのものという

暮坂峠、武具脱の池  (群馬県六合村、草津町)

義仲戦死の後、逃げのびた残党の逃避伝説も色々あるようだが、草津温泉から白根山に向う途中にある「武具脱ものぬぎの池」は、ここまで逃れた残党が武具を脱いで沐浴し、ここから北上して渓谷に入ったという。また隣接する六合村の暮坂峠のあたりには残党が住んでいたという。

武具脱池 武具脱の池  群馬県草津町 (平8.7) 義仲の残党はここまで逃れ武具を脱いで沐浴した

暮坂峠 暮坂峠 群馬県六合村 (平11.8) 義仲の残党はこのあたりに住んでいたという


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