甘縄神社

謡蹟めぐり  七騎落4  佐奈田与一、新開次郎、田代冠者、土屋三郎、安達盛長、和田小太郎、大庭景親、俣野五郎関係

佐奈田与一関係  (平15・1記)

佐奈田霊社、与一塚、文三堂  小田原市石橋

曲中に謡われるように岡崎四郎義実の長男佐奈田の与市義貞(与一義忠)は、この所で敵将大庭三郎景親の弟股野五郎景久と組んで討たれてしまった。二人は組んだまま馬から重なり落ち、雨の中を、上になり下になり山ぎわを転んで、与一は股野を組み伏せたのだが、股野の家来が救援に近づいて来たので、早く首を取ろうと刀を抜いて刺せども刺さらず、刀を見ると、先ほど敵の首を取った時に刀の血糊をふかずにいたので刺すことができなかったのである。そこへ股野の家来が来て与一の後から首を切ったのである。現在佐奈田霊社がその忠魂を祭り、その付近には与一塚、ねじり畑(与一討死の地)、与一の家来で主人とともに討死した文三家安の墓所である文三堂などの遺跡がある。
一説には与一は股野と組討ちの際に喘息のため痰がのどにつかえて言葉が出ず、味方の救援を得られなかったのではないかとの説もあり、霊魂が残って同病の人々を救う慈悲の誓願があると言われ、霊社は、喘息、せき、気管支炎などに悩む人々に霊験ありと信仰されているとのこと。私も喘息に悩む者として、この謂われを知り、ぜんそく飴を求めて帰った。

佐奈田霊社 佐奈田霊社 (平5.12)

与一塚 与一塚 (平5.12)

ねじり畑 ねじり畑(佐奈田与一義忠討死の地) (平5.12)

文三堂 文三堂 (平5.12)

佐奈田与一霊場 平塚市真田 天徳寺

平塚市真田の天徳寺にも立派な佐奈田与一の霊場がある。境内には佐奈田公力石、声の出なかった与一を詠んだ与一甚句碑等がある。

真田霊場 佐奈田霊場 天徳寺 平塚市真田 (平9.4)

証菩提寺 横浜市戸塚区上郷町

横浜市戸塚区上郷町の証菩提寺は、頼朝が自分の身代わりのように戦死した与一の追善供養のために建立したといわれる。

証菩提寺 証菩提寺 横浜市戸塚区上卿町 (平9.4)

新開次郎忠氏関係  (平15・1記)

東雲禅寺、新開荒次郎の墓  埼玉県深谷市新戒

寺の説明によるとこの寺は新開荒次郎の開基である。彼は伊豆の豪族、土肥実平の第二子で忠氏の養子となり鎌倉幕府の御家人として活躍したとのこと。寺の裏に荒次郎の五輪塔があり、唐破風の墓石は後に子孫が追善供養のため建てたもの。そばには新しい墓も建てられていた。

東雲寺 東雲禅寺 深谷市新戒 (平6.4)

新開次郎墓 新開荒次郎の墓 東雲禅寺 (平6.4)

田代冠者信綱関係  (平15・1記)

安養院(田代寺) 鎌倉市大町

伊豆の修善寺町のはずれ、中伊豆町に入るあたりに田代という地名があり、このあたりに田代信綱の邸址があったと言い、田代信綱の墓や砦跡と伝えられるものがあるというが、確認出来なかった。
石橋山の合戦で信綱の祖父茂光は深手の重傷を負った。信綱は茂光を背負って函南町大竹の神戸坂まで逃れて来たが、重傷の祖父茂光は、わが子親光に「父は余命いくばくもない、むざむざ敵の手にかかるより潔く自害する、早や我が首を打て」というなり割腹した。親光は父の首を打つことをためらっていると、傍らの信綱は合掌するとすぐさま刀を抜き「祖父様ご免」とその首級を打ち落とした。その後親光と信綱は再び石橋山に引き返し、頼朝の隠れ場所の近くの大木によじ登り、攻め来る敵を討ちまくったので、敵は頼朝に寄りつくことができず、真鶴から舟に乗って安房へ逃げることが出来たという。
その後平家追討の緒戦となった三草山(兵庫県)の戦いでは夜襲を進言して大勝をもたらし、一の谷でも大きな戦果をあげ、屋島の戦いでは義経の軍監として参画するなど大きな功績をあげた。
鎌倉の邸址は安養院の裏山で、そこに田代堂があったのを後に安養院に移したので安養院のことを田代寺とも呼ぶという。

田代寺 安養院(田代寺) 鎌倉市大町 (平6.11)

土屋三郎宗遠関係  (平成15・1記)

大乗院、土屋三郎一族の墓、土屋城址  平塚市土屋

土屋三郎は土肥実平の実弟で土屋(平塚市土屋)の領主であった。この地にある大乗院は鎌倉時代に土屋三郎が堂塔を再建したと伝えられる。この寺の住職の方と話す機会を得た。往時は多くの末寺をもつ大寺であったが、お堂の建物は惜しくも二次大戦で焼失したとのこと。寺にまつわる種々のお話の中で、頼朝の安房行きは身代わりが行ったので、頼朝自身は三浦半島に行ったのだという話は私には初耳であった。
大乗院から少し下がった林の中に土屋三郎一族の墓がある。彼は幾多の功績を残し、やがて老境に達し阿弥陀寺(現芳盛寺)を創建し、また大乗院を再建するなど善行に励み、90歳の高齢で世を去ったといわれる。
また、このあたりは土屋三郎の城址だそうで、土屋城址の案内板も立っていた。
彼は謡曲では、この「七騎落」のほか、「盛久」のワキとして登場する人物である。

大乗院 大乗院 平塚市土屋 (平9.4)

土屋一族の墓 土屋一族の墓 大乗院 (平9.4)

土屋城址 土屋城址の案内板 大乗院近く (平9.4)

安達藤九郎盛長関係  (平成15・1記)

甘縄神社、安達盛長邸址碑  鎌倉市長谷

謡本には安達盛長の名はなく、土佐坊昌俊となっているが、古書にはすべて土佐坊昌俊ではなく安達藤九郎盛長となっているとのこと。
彼の妻は頼朝の乳母比企尼の長女である。尼の次女は頼朝の重臣の一人河越重頼に嫁ぎ、三女は伊豆伊東氏の祐清のところに嫁いでいる。盛長は頼朝挙兵のとき関東武士団を尋ね頼朝の挙兵に味方として馳せ参じるよう誠心と、意を得た言葉で勧誘した功績は大きいといわれている。
鎌倉長谷の甘縄神社境内が盛長の邸址で大きな碑が建っている。埼玉県桶川市に安達盛長城址およびその墓がある由である。また、伊豆修善寺の温泉場から梅林に登る入口の右側にも盛長の墓がある由である。

甘縄神社 甘縄神社 鎌倉市長谷 (平6.12)

安達盛長邸址 安達盛長邸址碑 甘縄神社 (平6.12)

土佐坊昌俊関係  (平15・1記)

前述のとおり土佐坊昌俊は謡本には載っているが、実際は安達盛長のようである。土佐坊は「正尊」のシテであり、謡蹟もその項に譲ることとする。

和田小太郎義盛関係  (平15・1記)

和田義盛旧里碑、和田城址碑、和田塚、来福寺

ワキの和田義盛は三浦一族で半島の剛勇三浦大介義明の孫に生まれ、三浦市和田を領したことから和田氏を名乗った。和田地区に「和田義盛旧里碑」があり、近くに和田城址の碑もある。頼朝挙兵に参加したとき義盛は34歳、以後おおいに活躍して鎌倉幕府最高の侍所の別当に任ぜられ、頼朝、頼家、実朝の三代にわたって忠誠を尽くしたが、頼朝の死後天下を狙う北条氏とことごとく対立、義時の専横を憎んで健保元年(1213)幕府を攻めた。しかし同族三浦義村の北条方への寝返りもあって、鎌倉由比ヶ浜で滅ぼされてしまった。その一族の墓が由比ヶ浜にある。また、三浦市の来福寺は義盛の菩提寺で義盛の像も安置されているとのことであるが拝観できなかった。

和田義盛旧里碑 和田義盛旧里碑 三浦市和田 (平6.12)

和田城址 和田城址碑 三浦市和田 (平17.5)

和田塚 和田塚 鎌倉市由比ヶ浜 (平6.12)

来福寺 来福寺 三浦市南下浦町上宮田 (平6.12)

大庭景親関係

大庭城址、大庭城址公園 藤沢市大庭

曲中に「大庭が手勢君を討ち奉らんとて・・」とある。大庭景親は頼朝挙兵当時は平家方にあって相模一帯を押さえ頼朝軍を打ち破った。しかし安房に渡った頼朝は待望の三浦一族と合流し、急速に勢いを盛り返して鎌倉に向かうと、大庭景親と組んで三浦氏を攻撃した畠山重忠以下、河越・江戸などの豪族がみな頼朝の陣に加わり、大庭景親も遂に頼朝に降伏した。
大庭氏の居城址とされる所は現在大庭城址公園として立派に整備されている。公園にある説明によると、大庭城は源平合戦で有名な大庭三郎景親が居城したのが始まりといわれ、室町時代中頃には扇谷上杉氏の執事太田道灌が本格的な築城を行ったと伝えられる。

大庭城址 大庭城址 藤沢市大庭 (平6.12)

大庭城址公園 大庭城址公園 藤沢市大庭 (平6.12)

俣野五郎関係  (平15・1記)

福泉寺  横浜市戸塚区俣野町

曲中に岡崎義実の子、佐奈田与一は「石橋山の合戦に俣野と組んで討たれぬ」とあるが、俣野五郎は大庭景親の弟である。この男は曽我兄弟の親河津三郎祐泰と意趣相撲の結果、事件の発端となる人物であるが、このあたりに住み、福泉寺内にその位牌があるとのことである。俣野五郎は「実盛」に出てくる篠原の合戦で討死したといわれる。

福泉寺 福泉寺 横浜市戸塚区俣野町 (平9.4)


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