鬼婆の岩屋

謡蹟めぐり  黒塚 くろつか

ストーリー

那智の東光坊の阿闍梨祐慶は諸願成就のため、全国行脚の途中陸奥国安達が原へ辿り着きます。日が暮れたので、一行は人里離れた一軒家に宿を求めます。その家は女主人がただ一人で、はじめは断りますが、行くあてのない山伏を憐んで庵に入れてくれます。
祐慶は部屋の片隅に見なれぬ物を見つけ、主に問います。それは枠かせ輪といって女が糸を操る道具なのです。女は麻糸を繰って見せながら、人生のはかなさなどを語ります。
やがて主は夜寒をしのぐため薪を取りに出かけますが、その留守に部屋をのぞくなと言われた禁を破って祐慶の従者が中をのぞくと人の屍が積み重なり地獄の有様です。鬼の住家であることに氣がついた一行は逃げ、女は約束を破られた恨みに鬼女の本性を表し襲いかかります。しかし祐慶の必死の調伏に屈して次第に魔力も弱って消え失せます。(「宝生の能」平成10年8、9月号より)

安達が原の「黒塚」縁起概説   (平7・10記)

ここ安達が原の「鬼婆」はその名を「岩手」といい、京都のある公卿屋敷の乳母であった。永年手しおにかけて育てた姫の病気を治したい一心から、「妊婦の生き肝を飲ませば治る。」という易者の言葉を信じ、遠くみちのくに旅立ち、たどりついた場所が、この安達が原の岩屋だった。
木枯らしの吹く晩秋の夕暮れどき、伊駒之助・恋衣(こいぎぬ)と名のる若夫婦が一夜の宿をこうたが、その夜、身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、伊駒之助は薬を求めに出ていった。
老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生き肝」を取るのはこの時とばかり、出刃包丁をふるって、苦しむ恋衣の腹を裂き「生き肝」を取ったが、苦しい息の下から「私は小さい時京都で別れた母を探し歩いているのです。」と語った恋衣の言葉を思い出し持っていたお守り袋を見てびっくり。これこそ昔別れた自分のいとしい娘であることがわかり、気が狂い鬼と化してしまったという。
以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を食らいいつとはなしに「安達が原の鬼婆」といわれるようになり、全国にその名が知れ渡った。
数年後、紀州熊野の僧「阿闍梨祐慶東光坊」が安達が原を訪れ部屋の秘密を知り逃げた。老婆はすさまじい剣幕で追いかけてくる。東光坊今はこれまでと、安座す如意輪観音の笈をおろし祈願するや尊像は虚空はるかに舞い上がって一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。
そしてその後、東光坊の威光は後世に伝わり、このあらたかな白真弓如意観音の功徳甚深なる利生霊験は、奥州仏法霊場の随一と称する天台宗の古刹となり、1260年後の今日まで赫々の名を残したのである。
鬼婆を埋めた塚を黒塚といい、そこには平兼盛の詠んだ有名な
   みちのくの 安達が原の 黒塚に
         鬼こもれりと 聞くはまことか
の句碑が建立され、その昔を物語っている。境内には鬼婆の住んだ岩屋、鬼婆の石像、夜泣石他、また、俳聖正岡子規が黒塚を訪れ
   涼しさや 聞けば昔は 鬼の家
と詠んだ句碑や文久元年、養蚕繁昌を祈願して建てられた「蚕養神」等の碑がある。 (真弓山観世寺「案内」より抜粋)

安達が原 福島県二本松市安達が原 (平14・8記)

本曲の舞台は福島県二本松市のその名も安達が原の真弓山観世寺のある森一帯である。
境内はかなり広く、本堂、如意輪観音堂、鬼婆の岩屋、鬼婆の石像、夜泣き石、出刃洗いの池、宝物館などがある。
寺の裏側に鬼の岩屋といわれる巨岩が積み重なった窟があり、鬼婆が住んでいたところという。笠石という平らな大岩が載っているのは奇観であるが、周囲は比較的平坦なところでどのようにしてこの大きな岩が載ったのか不思議である。
東光坊は鬼婆に追われ逃げながら背中の笈の中の観世音に祈ると、中空に観音の尊像が現れて白真弓で鬼女を射殺したという。これが真弓山の山号の由来で、観音像が本尊である。
寺から少し東方に行くと黒塚の碑があり、ここが鬼女を埋めた墓であるという。その真中に立つ樹齢八百年の黒塚の大杉はみごとである。

観世寺 真弓山観世寺境内 福島県二本松市安達が原 (平14.5)

鬼婆の岩屋 鬼婆の岩屋 観世寺境内 (平14.5) 寺の裏側に巨岩が積み重なって窟があり、鬼婆が住んでいた所という

鬼婆石像 鬼婆石像 観世寺境内 (平14.5)

出刃洗いの池 出刃洗いの池 観世寺境内 (平14.5)

夜泣き石 夜泣き石 観世寺境内 (平14.5)

黒塚の大杉 黒塚の大杉 観世寺近く (平14.5)

黒塚の大杉 黒塚の碑 (平5.5) 鬼女を埋めた墓であるという


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