蟻通神社

謡蹟めぐり  蟻通 ありどおし

ストーリー

紀伊国の玉津島明神に参詣の旅に出た紀貫之は、途中、急に日が暮れ大雨が降り出し、馬も倒れて弱り果てます。そこへちょうど、傘をさし松明を持った宮守の老人がやって来たのでこの難を告げると、宮守は、この蟻通明神の神域を下馬もせずに通ろうとしたお咎めであろうと云います。そして、相手が貫之であることを知って、歌を詠んで神の心を慰めるよう勧めます。
貫之が畏れかしこみつつ「雨雲のたちかさなれる夜半なれば、ありとほしとも思ふべきかは」と詠むと宮守は感心し、和歌の徳をたたえます。また宮守は、貫之の願いに応じて祝詞を奏し神楽を舞い、実は自分は蟻通明神であり、さきほどの貫之の詠歌の心に感じて姿を現したのだと告げて、鳥居の笠木に隠れるように姿を消します。貫之は神に詠歌を納受し給うたことを心から喜び、再び旅立ってゆきます。(「宝生の能」平成11年6月号より)

蟻通神社  泉佐野市長滝  (平12・10記)

舞台は大阪の泉佐野市にある蟻通神社である。
変わった名の神社であるが次のようないわれがある。
昔、唐の人が日本人の智恵をためすため、七曲りの小孔が貫通した珠を送ってきて、これに糸を通せという。一人の老人が蟻の胴に細い糸をつけ、小孔の出口に蜜を塗り、反対の入口から蟻を入れてみごと糸を通し、唐人を驚かした。人々はこの老人を尊び、蟻通しの明神として祀ったという。
神社の奥には小さな池がある。紀貫之冠の渕といわれ、貫之の馬が倒れた時に貫之の冠がここに落ちたという。池の近くには紀貫之大人冠之渕の碑や紀貫之歌碑、紀貫之冠之渕の由来を書いた碑、紀貫之歌碑建立の趣旨を書いた碑などがある。歌碑に刻まれた和歌と謡曲中に謡われる和歌とは下の句が異なっているが、貫之集には歌碑の歌の載っている由である。建立の趣旨の中にもそのことには触れてはいないようである。「ありとほし」は「蟻」と「星」とをいいかけている。

蟻通神社 蟻通神社 紀貫之が下馬もせず神前を通ったので馬が倒れた。大阪府泉佐野市長滝 (平10.3)

冠の渕碑 紀貫之冠の渕碑 泉佐野市 蟻通神社 (平10.3)

冠の渕碑 紀貫之歌碑 「かきくもりあやめもしらぬおおぞらに ありとほしおばおもふべしやわ」
と刻まれている。 泉佐野市 蟻通神社 (平10.3)

紀貫之について (平12.10記)

紀貫之の名は「草紙洗」ほか謡曲にも多く登場するが、この曲では中心の人物となっているので、私の訪ねた古蹟を紹介する。
貫之は古今集撰者の筆頭でその序文の筆者、わが国文学の興隆に大きな貢献をした人である。日本で最初の仮名紀行文として知られる「土佐日記」は貫之が土佐守として59歳で赴任し、4年の任期を終えて京都に戻った後に著したものである。80歳で没した。

高知県南国市国分にある土佐国分寺のあたりは昔の政治の中心地であった。国分寺は聖武天皇の勅願により、行基が創建、後に弘法大師が真言宗の寺として中興し、四国八十八ケ所巡りの第二十九番霊場となった。紀貫之が国司として4年間滞在した地としても知られる。
国分寺から少し離れた所に紀貫之邸跡(国司館跡)がある。よく手入れされた敷地内には、数々の石碑が建てられ、その碑文や紀貫之についての説明が数多く立てられている。
土佐日記の碑には次の二種の歌がきざまれている。
「 みやこへとおもふをもののかなしきは  かへらぬひとのあればなりけり
  さをさせどそこひもしらぬわたつみの  ふかきこころをきみにみるかな
                                紀貫之 」
歌の中の「かへらぬひと」とは、京から連れてきた愛娘(6〜7歳)を都へ帰る直前、急病で亡くして共に帰れぬことを嘆いたものである。
また、近くに近江から彼が勧請した日吉神社もある。

土佐国分寺 土佐国分寺 聖武天皇勅願の寺。当時の政治の中心地 南国市国分 (平9.4)

紀貫之邸跡 紀貫之邸跡 国司館跡でもある 南国市比江 (平9.4)

土佐日記碑 土佐日記の碑 上記の歌が刻まれている 紀貫之邸跡 (平9.4)

日吉神社 日吉神社 貫之が近江から勧請した神社 南国市比江 (平9.4)

高知市大津の舟戸のあたりは、当時は海岸だったようで貫之はここから都に向かい船出した。大津小学校の構内には紀貫之船出の地の碑が建てられている。

高知県夜須町の手結山観光ホテルの前庭には紀貫之の文学碑が立っており、貫之がこの沖を通り宇多の松原を眺めながら通ったことを記述した土佐日記のことを紹介している。参考までに碑の文面を再録してみる。
「 承平五年(九三五)一月九日、土佐日記の作者紀貫之は国司の任を終えて京に帰る時海路ここを過ぎた。貫之は前年十二月廿七日大津を舟出し浦戸、大湊に碇泊して一月九日の早朝大湊を発し、宇多の松原を眺めながらこの海岸づたいに奈半利に向った。 」
「 土佐日記抄 かくて宇多の松原をゆきすぐ、その松のかずいくそばくいく千歳経たりと知らずもとごとに波うちよせ枝ごとに鶴ぞ飛びかよふ 」

船出地の碑 紀貫之船出の地の碑 貫之はここから京都に向け船出した 高知市大津舟戸 大津小学校内 (平9.4)

文学碑 紀貫之文学碑 土佐日記の一部を紹介 高知県夜須町 手結山観光ホテル (平9.4)

貫之を乗せた船は南下を続け室戸市羽根岬を過ぎる。羽根岬にも貫之の歌碑が建てられている。説明によると
「 ・・古くは、紀貫之が土佐日記に承平五年(九三五)一月一○日奈半の泊りに泊し、一行は一一日昼頃羽根崎を過ぎる。幼童の羽根と言う名を聞いて、
  ― まことにて名に聞く所 羽根ならば
       飛ぶがごとくに 都へもがな ―
と詠まれている。 」

更に南下した一行は室戸市室戸岬町津呂港で天候悪く十日ほど滞在した。港には紀貫之朝臣泊舟の處碑がある。
また室戸岬先端の岩場の中にも土佐日記御崎の泊の碑が立っていた。説明は見当たらなかったが、このあたりで泊まったのでもあろうか。

羽根崎歌碑 紀貫之歌碑(羽根岬) 室戸市羽根岬 (平9.4)

泊舟碑 紀貫之朝臣泊舟の處碑 天候悪く十日ほど滞在する 室戸市室戸岬町津呂港 (平9.4)

土佐日記御碕の泊碑 土佐日記御崎泊の碑 高知県知事の筆になる 室戸市室戸岬 (平9.4)

一行は室戸岬から鳴門に向う。鳴門市鳴門町土佐泊の潮明寺には大きな貫之の歌碑がある。説明によると
「 鳴門町土佐泊は昔土佐と京都との海上交通の要路にあたり行き帰りの船が寄港していたので土佐の泊の名が起ったと伝えられている。承平5年(935)平安時代の歌人「紀貫之」が土佐の国司の任を終え都へ帰る途中土佐泊へ寄港したことが土佐日記に記されている。
    東(と)しころを住みし所の名にしおへば きよる浪をもあわれとぞ見る
この歌は、貫之が土佐泊に寄港したときに詠んだものであります。 」

潮明寺 潮明寺 貫之に帰任の途中ここに寄ったという 鳴門市鳴門町土佐泊 (平12.9)

潮明寺歌碑 紀貫之歌碑 潮明寺境内 (平12.9)

奈良の長谷寺の境内に、紀貫之古里の梅がある。幼少の頃叔父が住持したこの寺の塔頭で修行したことがあり、その時に植えた梅が成人した後に長谷寺を訪ねこの梅を見て詠んだ歌が、百人一首で有名な古今集の
      人はいさ心も知らず古里は    花ぞ昔の香に匂いける
である。

故里の梅 紀貫之 古里の梅 百人一首の歌で有名 奈良県桜井市初瀬 長谷寺 (平1.5)


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