曽我の里

謡蹟めぐり  小袖曽我1 こそでそが 曽我の里

ストーリー

曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行うので、この機会に日頃から親の敵と狙っている工藤祐経を討つ決心をします。
そこで、母に暇乞いをするため、又、五郎の勘当も許しも得たいと、兄弟は母の下を訪れます。十郎の来訪を母は大変喜びますが、親の意向に背いた五郎が来たことをもっての外と怒り、再度勘当を言い渡します。十郎は母の前に五郎を連れて出て、母にとりなし懸命に許しを乞いますが一向に聞き入れられません。兄弟がなすすべもなく、悲しく立ち去ろうとすると、さすがに母も耐えかねて不孝も勘当も許します。
兄弟は喜び、めでたい門出に祝杯をあげて舞を舞い、これが親子最後の対面かと名残りを惜しみつつ、母に別れの挨拶をして、狩り場へと勇んで出立します。(「宝生の能」平成11年12月号より)

曽我兄弟仇討の発端 (平4・1記)

平成2年12月、小田原市にある城前寺を参詣した。境内には十郎、五郎、祐信、母満江御前の供養墓や鬼王兄弟の碑などもある曽我兄弟ゆかりの寺である。この寺で「城前寺本・曽我兄弟物語」なる書物を入手したが、曽我兄弟の仇討の発端から後日譚まで平易な文章で綴られており参考になった。有名なこの仇討ちの発端となった背景の部分を要約してみた。
なお、登場人物の理解を深めるため、兄弟をめぐる人々の系譜を掲げてみる。曽我兄弟のほか、一族の中には三浦介、北条時政の妻、頼朝の子を産んだ八重姫など、有名な人々が登場しており興味はつきない。

                       ┌ 十郎祐成(一万)
                  ┌ 祐泰 ┼ 五郎時致(箱王)
                  │    └ 御房丸
        ┌ 祐家 − 祐親 ┼ 祐清 
        │         ├ 女(三浦介義澄の妻)
        │         ├ 女(北条時政の妻)
        │         └ 女(八重姫、頼朝の子千鶴丸を産む)
  伊東祐隆  ┤
        │    ┌ 祐経 − 祐時 − (日向伊東氏など)
        ├ 祐継 ┤
        │    └ 宇佐美祐茂 
        └ 狩野茂光

  1. 祐隆は伊東に住んで、楠見(宇佐美・伊東・大見の三郷)と河津の二荘、すなわち伊豆半島の東海岸のほとんどと中伊豆の一部を領有していた。

  2. 祐隆の嫡男祐家は、若くして父に先立ち病死する。

  3. 祐隆の三男祐継(工藤祐経の父)は腹違いの子供。後妻が連れ子してきた、水草とよぶ娘に生ませた子である。   父の祐隆は若い水草を溺愛するあまり、嫡男祐家が亡くなると当然その嫡子祐親に与えるべきものをすべて工藤祐継に譲ってしまった。

  4. 祐親は父祐家の死後、河津の館を与えられただけなので憤懣やるかたない。
    一方、楠見、河津二荘のほとんどを譲り受けた祐継は病気がちで、自分の死後のことを心配していた。ある日、日頃あまり顔を見せない祐親が見舞いに現れた。すっかり気弱になっていた祐継は、後々の心細さを訴えると、祐親は「三人の子供の将来は必ず守る」と約束。祐継はなお、「金石丸(工藤祐経)が十五歳になったら貴殿の手で元服させ、貴殿の娘の万劫御前を金石丸にめあわせてほしい、また六波羅殿へも見参させてほしい」などと頼んで、間もなく死亡した。 
    祐親は祐継の死後、河津の館を嫡男の祐泰に譲り、自分は金石丸の後見という名目で伊東の館に居座った。そしてさらに、金石丸母子には宇佐美の館を改修させて住まわせ、念願の楠見・河津二荘の経営を自分の手に握った。
    それでも祐親は故人との約束どおり、祐経の元服の式を行い、娘を嫁にやり、また京都に上って平清盛に目通りし、祐経の平家随身をはたしていた。

  5. 祐経は京都にあって、自分の所領がすべて祐親に奪われたことを知り、六波羅殿へ訴訟に及んだ。平重盛は双方の理を認め「祐親は祐経に宇佐美郷を譲り、そのほかの楠見・河津の荘は長く祐親が相伝すべし」と裁決した。祐親は納得したが、工藤祐経はこの判定に強い不満を抱いた。
    祐経は弟祐茂のすすめもあって駿河の土豪と結託、祐親を討とうと密議をこらした。しかしこの密議は祐親の知るところとなり、あわや合戦となるところを、伊豆に流されていた源頼朝の調停により事なきを得た。その後、祐親は工藤祐経に嫁がせた自分の娘を強引に連れ戻すことなどもあって祐経の祐親への恨みはますます強くなっていった。

  6. 祐泰(河津三郎)  祐親の嫡男で河津の館にあったが、この頃にはすでに仇討の主人公十郎も生まれていた。
    祐親は頼朝のはからいで工藤祐経と一戦に及ぶところを事なきを得たので、そのお礼に奥野で狩倉を催してお慰めし、そのあと宴席を設けることを計画した。二人の子供、祐泰、祐清も賛成、これに参加することとなった。
    この計画を知った工藤祐経の郎党は帰路の油断を狙って祐親を討とうと、赤沢山の麓で一行の通るのを待ちかまえた。頼朝の次こそ祐親と思っていたが姿を現したのは祐泰、これも敵の一人と弓を射かけて祐親の嫡男祐泰を殺してしまった。曽我兄弟は祐泰の子供である。

曽我の里(小田原市・城前寺あたり) (平8・1記)

曾我兄弟を扱った謡曲は宝生流では、「小袖曽我」のほかに「禅師曽我」「調伏曽我」「夜討曽我」があり、他流では「元服曽我」もある。
曾我兄弟に関する謡蹟はそれぞれの曲に固有のものもあるが、共通するものも多いので、数多くある謡蹟の中で私が訪ねたものだけを地域別に紹介することとする。

最初に「小袖曽我」の舞台となった曽我の里の謡蹟をとりあげよう。

本曲の舞台を謡本では伊豆国曽我と書いてあるが、実際は相模の国、現在の神奈川県小田原市の曽我梅林の近くのようである。曽我兄弟は父河津の三郎祐泰が工藤祐経の命を受けた郎党二人に射殺されてから、祐泰の未亡人満江(まんこう)御前は幼い二人を連れて、曽我太郎祐信のもとに輿入れした。
曽我祐信は小田原市の曽我の里、現在の城前寺あたりに大きな城館を構えており、ここで兄弟は17年間を過ごした。河津の子供たちが「曽我」を名乗るようになったのはこのためである。 
梅の頃、花見を兼ねて訪ねるには絶好の所である。

城前寺、曽我兄弟の遺跡・旧跡の碑 小田原市

城前寺は曽我兄弟の菩提寺で、兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名があるとのこと。兄弟が工藤祐経を討った後、叔父の宇佐見禅師はその遺骨を携えこの地にきて庵を結び兄弟の菩提を弔ったと伝えられる。なおこの討ち入りの時、兄弟は暗夜であったため笠を燃やして松明としたので、仇討ちの日にあたる5月28日にはこの故事にならい、境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼き祭が行われる。
境内には立派な曽我兄弟之旧跡の碑、曽我兄弟遺跡の碑がある。

城前寺 城前寺 小田原市曾我谷津 (平2.12) 曾我兄弟の菩提寺である

兄弟遺跡の碑 曾我兄弟の遺跡の碑 城前寺境内 (平2.12) 境内には立派な碑が建っている

兄弟旧蹟碑 曾我兄弟の旧跡の碑 城前寺の境内 (平2.12) 形の変わった旧跡の碑もある

一族四人の墓、曾我兄弟の墓、祐信満江の墓、鬼王兄弟の碑  城前寺境内

境内裏の小高い丘には左手に十郎、五郎、右手に義父祐信、母満江御前の墓がある。この丘は曽我城の土塁跡とのことである。墓地はかなり広いがそれぞれの墓の手前には「曽我兄弟之墓」「祐信満江之墓」と刻まれた碑が立っている。
また墓のそばには「鬼王兄弟之碑」もある。

一族四人の墓 一族四人の墓 城前寺境内 (平2.12) 左手に十郎、五郎、右手に義父祐信、母満江御前の墓がある

曽我兄弟の墓城前寺 曾我兄弟の墓 城前寺境内 (平2.12) 左手の賦多雨の墓の前に建つ

祐信満江の墓 祐信満江の墓 城前寺境内 (平2.12) 右手の二つの墓の前に建つ

鬼王兄弟の墓 鬼王兄弟の墓 城前寺境内 (平2.12) 四人の墓から少し離れた所に建つ

忍石(しのびいし)  城前寺境内

この石は十郎祐成が愛人の大磯の虎女と逢瀬を楽しんだ石といわれる。この石は曽我山を東西に通ずる山路にあったのをこの寺の境内に持ってきたものである。

忍び石 忍石(しのびいし) 城前寺境内 (平2.12) 十郎が愛人虎女と逢瀬を楽しんだ石

五郎の沓石  城前寺近く

曽我五郎がある時、足を患ったが、治癒した際、自分の体力が衰えていないかと心配になり、ためしにこの石の上で踏ん張ったところ、石が足形に窪んでしまったといわれ、その足形が石の真ん中あたりに残っている。この沓石には以前は足を病んだ人たちが祈願して治ったお礼に草履や草鞋などのお供え物が絶えなかったという。

五郎の沓石 五郎沓石 城前寺近く (平2.12) 衰えた体力をためすためこの石の上で踏ん張った

瑞雲寺、力不動、「曽我の春」歌碑  小田原市

瑞雲寺は曽我梅林の中にある寺で、境内には曽我兄弟が父の仇を討つために経文を納めて「十人力」を授けられたという「力不動尊」が安置されている。この不動尊は大山不動尊の前不動で、曽我剣沢の地にあったものを江戸時代後期にこの寺に移されたという。
また境内には「曽我の春」の歌碑があり、曽我兄弟、虎御前、力不動尊を歌いこんでいるので紹介する。

   曽我の春   作詞 峯にしはる 作曲 佐々木忠孝 唄 八汐亜矢子

   そよ吹く風に霜がとけ 寒さを凌いだ花一枝 幸せもとめあなたと二人
   生きる喜び与えてくれる 梅の故里 梅の故里 曽我の春

   幾年月を隔てても 愛とし想いの虎御前 女の夢がほのかに香る
   姿偲んで両手をあわす 梅の故里 梅の故里 曽我の春

   真白く清き富士の嶺 望みはるかな志 十郎五郎傘焼く宵も
   力不動に願いをかける 梅の故里 梅の故里 曽我の春

瑞雲寺 瑞雲寺 小田原市曾我岸 (平2.12) 境内に力不動が安置されている

力不動 力不動 瑞雲寺境内 (平2.12) 兄弟はこの不動から十人力を授けられた

曽我の春歌碑 「曾我の春」歌碑 瑞雲寺境内 (平2.12) 曾我兄弟、虎御前、力不動を歌いこんだ碑

曽我の里、満江御前の墓   小田原市曽我別所
曽我祐信宝篋印塔    小田原市曽我谷津

梅の頃の曽我の里は素晴らしい。梅の香を楽しみながら梅林のあたりを歩くうちに思いがけず見つけたものである。兄弟の母、満江御前は兄弟の死後仏門に帰依し別所の地に住みここで没したという。また、曽我祐信宝篋印塔は昔から「祐信さんの供養塔」と呼ばれているとのこと。祐信は満江御前が夫祐泰が討たれた後、幼い二人を連れて再婚した人である。

曽我の里 曾我の里 小田原市曾我別所 (昭58.2) 兄弟はこのあたりで育った

満江御前の墓 満江御前の墓 小田原市曾我別所 (昭58.2) 兄弟の母、満江御前は仏門に帰依この地で亡くなった

曽我祐信塔 曾我祐信宝篋印塔 小田原市曾我谷津 (平58.2) 祐信は満江御前が兄弟を連れ再婚した人


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