継桜王子

謡蹟めぐり  俊寛3 九十九所王子、康頼関係謡蹟

九十九所の王子と熊野参詣  (平15・3記)

曲中に「三熊野を勧請申し、都よりの道中の、九十九所の王子まで・・」とある。「三熊野」とは、熊野三山。熊野坐神社(本宮)、熊野速玉神社(新宮)、熊野那智神社(那智)の総称で、詳細は「巻絹」の項で記す予定である。
王子というのは、熊野の御子神(みこがみ)の意味で、熊野三山の末社と考えてよい。平安末期ごろから、日本には、童子信仰ともいうべきものが発達した。聖徳太子や弘法大師は、いとけない稚児の姿で現されるようになり、伊勢、八幡、春日、比叡、その他の神社にも、若宮もしくは何々童子と呼ばれる神々が生まれた。
熊野の王子はその顕著な例の一つである。九十九王子と熊野参詣道をまとめたものが、昭文社のガイドブックに載っていたので、転載させていただいた。このうち私の訪ねたもののみを紹介する。

八軒家船着場跡・・
京都を出発した上皇や貴族たちは、船に乗って淀川を下り、現在の大阪市天満橋の西にある八軒家船着場跡あたりに上陸、この近くにあった窪津王子を最初にお詣りしたものと思う。中央区の石町に座摩神社のお旅所がありここが窪津王子の跡と言われるが訪ねていない。この船着場あたりから義経が屋島に向け船を出したというので訪ねたのであるが、熊野詣での出発点でもあったのを知り驚いた。

阿倍王子神社・・
大坂市内に現存する唯一の王子社とのこと。熊野街道の碑も見られる。近くには安倍清明を祀る安倍清明神社や松虫塚がある。

藤白神社・・
海南市の旧道ぞいにあって、藤白王子が今は藤白神社となっている。神社の近くには謡曲とは直接関係ないが、有馬皇子に関連する史跡がある。有馬皇子は孝徳天皇の皇子であるが、皇位継承をめぐる複雑な争いの中で19歳の若さでこの地で殺害された。皇子を祀る「有馬皇子神社」や「皇子の墓」、さらに彼が詠み万葉集にのせられている和歌
    家にあれば 筍(け)に盛る飯(いい)を 草枕
            旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る
の歌碑等もあり、薄倖の皇子のありし日を偲ばせてくれる。

滝尻王子・・
ここから熊野古道は熊野の霊域に入る。九十九王子の中では、もっとも格式の高い五体王子の一つで、往時はここで垢離をとり御歌会などが開かれた。

継桜王子・・
藤原秀衡の伝説にちなむ桜があるためこの名がついた。秀衡が熊野参詣の途次、滝尻王子まで来たとき妻が男児を出産した。しかし夫妻はこの児を打ち捨てて本宮に向かうこととし、途中の野中で妻が持っていた桜の杖を地に挿し、もし児が無事生育すればこの桜も根付くであろう占った。帰途果たして根付いており児も育っていたという。詳細は「錦戸」の項で取り上げる予定である。

伏拝王子・・
ここまで来た和泉式部が、月の障りで参詣を諦め熊野大社を伏し拝み「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさはりとなるぞかなしき」と詠んだところ、熊野の神があらわれ「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき」と返歌したという言い伝えがある。

祓戸王子・・
本宮大社に最も近い王子。

佐野王子・・
新宮大社から那智大社に至る太平洋岸の国道42号線沿いにある。

九十九王子と熊野参詣道 九十九王子と熊野参詣道 昭文社ガイドブックより

三熊野と九十九王子を参詣することを「熊野詣で」と総称している。熊野詣では平安時代から鎌倉期へかけて「蟻の熊野詣で」と云われたくらい、上は上皇から庶民に至るまで、無数の人々が熊野まで足をのばした。後白河法皇は33度、後鳥羽上皇は27度も参詣されたという。康頼、成経の二人も33度の参詣を思い立ったが、その半分にもならぬうちに遠流の身となったと謡本に書かれているくらいだから、ここに掲げた王子は勿論、九十九の王子にも何回も参詣したものと思われる。

八軒家船着場址 八軒家船着場跡 大阪市中央区天満橋京町 (平14.9) 京都から淀川を下りここに上陸、熊野詣での出発点、近くに窪津王子があった

安倍王子神社 安倍王子神社 大阪市阿倍野区阿倍野元町 (平12.8) 大坂市内に現存する唯一の王子社

藤白神社 藤白神社 和歌山県海南市 (平6.5) 往時の藤白王子

滝尻王子 滝尻王子宮 和歌山県中辺路町滝尻 (平10.3) 九十九王子中最も格式の高い五体王子の一つ 

継桜王子 継桜王子跡 和歌山県中辺路町野中 (平10.3) 藤原秀衡の伝説にまつわる桜がある

伏し拝王子 伏拝王子 和歌山市本宮町伏拝 (平10.3) 和泉式部がここから本宮を伏し拝んだという

祓戸王子 祓戸王子 和歌山県本宮町 (平10.3) 本宮大社に近い

佐野王子 佐野王子 和歌山県新宮市 (平10.3) 新宮大社、那智大社の間の太平洋岸

康頼関係の謡蹟   (平15・3記)

平康頼之塔        京都市北区紫野大徳寺町 大徳寺

大徳寺勅使門の西に「平康頼之塔」がある。康頼の生国阿波の人が文治2年(1186)に建てたと伝えられる。康頼は帰洛後に生国阿波の地頭に任ぜられたともいわれる。

平康頼の塔 平康頼之塔 京都市北区紫野大徳寺町 大徳寺 (平6.4)

平康頼の墓        京都市東山区円山公園 双林寺

康頼は帰洛後京都の双林寺に隠栖したといわれ、西行や頓阿の墓と並んで康頼の墓がある。写真は「西行桜」の項に掲載したので省略する。

康頼の供養塔       愛知県美浜町野間 野間大坊

源義朝最後の地として知られる野間の大坊に康頼の供養塔がある。康頼は尾張の国司となった時、この大坊にある義朝の墓の荒れたのを修復したので、後に頼朝がこれを多として建てた供養塔といわれる。

康頼の供養塔 康頼の供養塔 愛知県美浜町野間 野間大坊 (平6.5)

卒塔婆石と康頼燈籠     広島県宮島町 厳島神社

康頼は孝行の心強く、鬼界ケ島で母を慕う「薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告げよ八重の潮風」と、「思いやれしばしと思う旅だにも、なおふる里は恋しきものを」の二首の歌を卒塔婆千本に刻んで海に流した。その一つが平家の守護神厳島神社に流れつき、このことが都に知れて赦免の一因ともなった。流れついた場所が神社の回廊に近い砂浜で、卒塔婆石として今も残っており、近くには康頼が赦免のお礼に奉納した康頼燈籠がある。

卒塔婆石 卒塔婆石 広島県宮島町 厳島神社 (平11.9)

康頼燈籠 康頼燈籠 広島県宮島町 厳島神社 (平11.9)


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