楊貴妃の里

謡蹟めぐり  楊貴妃 ようきひ

ストーリー

安禄山の乱の時、馬嵬が原で殺された楊貴妃のことを忘れかねた唐の玄宗皇帝は神仙の術を会得した方士に命じて、楊貴妃の魂魄の行方を尋ねさせます。方士は上碧落より下黄泉に到るまで探しますが、見当たらず、最後に常世の国の蓬莱宮へとやって来ます。
ここでようやく楊貴妃の魂と会うことができた方士は、貴妃没後皇帝の嘆きを伝え、ここに来た証拠に、帝と貴妃が交わした言葉を教えてほしいと頼みます。貴妃は、自分もまた恋慕の情に堪えぬこと、また七夕の夜に比翼の鳥、連理の枝になろうと二人で誓いあったという話をします。貴妃はさらに、自分はもと天上界の仙女だったが、仮に人間界の楊氏の家に生まれ、帝に召されて深い契りを結んだのだと物語り、思い出の霓裳羽衣の曲を舞ってみせます。そして再会の望みなきを悲しみ、自分の挿しているかんざしを取って与え、都へ立ち帰る方士の後ろ姿を見送ります。(「宝生の能」平10年2月号より)

楊貴妃の墓 熱田神宮 名古屋市  (平11・12記)

木本誠二著「謡曲の古蹟大成」に、熱田神宮と楊貴妃の伝説が記されているので紹介する。

楊貴妃は元来熱田神宮の女神であるが、唐の玄宗皇帝が日本を窺う野望があるのを憂えた天照大神の密命を受けて、唐に渡り楊貴妃として生れ変った。計画どおり玄宗の寵妃となり、帝を誑かして政務を惑乱させ目的を達し、その身は馬嵬が原の露と消えたけれども、魂魄は再び熱田神宮に帰り住んだ。
本曲の常世の国は日本のことで、蓬莱宮は熱田神宮である。ワキの方士が訪れた門が春敲門で、今は神楽殿の茂みの中に春敲門址の石碑だけが残っている。方士が帰って玄宗皇帝に奏上したところ、皇帝も疑いなしとして飛車という車に乗り熱田神宮に天降って八剱大明神となった。今の境内摂社の八剱宮がこれである。 
やがて楊貴妃もその生を終り、葬られた所が神宮の裏で、神楽殿の裏手の樹林を下って行くと昼なお暗い、それこそ常夜の国のような泉の中に楊貴妃と墓と称する苔むした石がある。

春敲門址 春敲門址の碑 名古屋市 熱田神宮 (平7.2)

八剣宮 八剱宮 名古屋市 熱田神宮 (平7.2)

楊貴妃観音堂 楊貴妃の墓 名古屋市 熱田神宮 (平7.2)

楊貴妃観音 京都市 泉湧寺 (平11・12記)

京都の名刹泉湧寺に、楊貴妃観音が観音堂に祀られている。玄宗皇帝が妃を偲んで等身大に刻ませたものを湛海が宋から持ち帰ったと伝えられる。撮影は禁止されているので、ここで求めた写真を掲げる。

楊貴妃観音 楊貴妃観音 泉湧寺観音堂

楊貴妃の里 山口県長門市油谷 (平19・7記)

玄宗皇帝の寵愛を一心に受けた楊貴妃は安禄山の乱にあって殺されたとされているが、実は危うく難を逃れた船に乗り、向津具半島の北西、唐渡口に辿り着いたと言う。けれども衰弱甚だしく間もなく世を去ったため、憐れんだ里人らが亡骸を二尊院に埋葬した。その墓が油谷の二尊院に伝わる五輪の塔である。
油谷ではこの楊貴妃伝説を使って町おこしをはじめ、楊貴妃の墓の周りを楊貴妃の里として整備した。中でも目をひくのが楊貴妃の像である。唐の都長安(今の西安)近郊の楊貴妃最後の地、馬嵬坡(ばがいは)に立つ像と同じ白亜の楊貴妃像が、平成5年6月、中国の彫刻家の手で二尊院境内に建立された。

楊貴妃の墓油谷 楊貴妃の墓 長門市油谷 二尊院 (平15.10)

楊貴妃の里 楊貴妃の里 長門市油谷 (平15.10)

楊貴妃像 楊貴妃の像 楊貴妃の里 (平15.10)


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