宮山八幡

謡蹟めぐり  難波2 なにわ 応神天皇ゆかりの史跡

応神天皇ゆかりの史跡

・ 富丘八幡神社、応神天皇船繋松跡碑  香川県小豆島土庄町州崎
・ 応神天皇手植えの真柏        香川県小豆島土庄町北山
・ 宮山八幡、(応神天皇聖蹟)     香川県小豆島内海町苗羽

応神天皇は母の神功皇后が難船して漂着した小豆島に、後年母を偲んで行幸されている。土庄町の「富丘八幡神社」は見晴らしのよい丘の上にあり、応神天皇と神功皇后を祀るが、社殿の下に道路に面して「応神天皇船繋松跡」の立派な碑がある。昔はここが海岸で松の木に船を繋いだのであろうが、現在は松の面影は見られない。

少し離れた宝生院には「応神天皇手植えの真柏(しんぱく)」がある。大正の中頃、植物学の大家本多静六氏の調査研究によると樹齢1500年以上と推定されるとのことである。由緒ある神木として郷土の人は崇敬し、大切にしてきている。

小豆島の内海町苗羽地区の丘の上に宮山八幡がある。この近くに戦時中特殊潜航艇の基地があり、私もここで訓練を受けていた。戦後30年余を経てこの地が懐かしく思い出され、昭和51年に一人訪ねてみた。艇を係留してあった古江湾の姿は昔のままであったが、宿舎だった丸金醤油の青年学校などは会社の人に聞いても分からなかった。昭和59年、会社の定年を記念して妻と長男と一緒に再びこの地を訪ねた。この時のタクシーの運転手がこの宮山のことを知っていて案内してくれた。立派な戦友たちの忠魂碑や、特殊潜航艇模型の碑を発見し、訓練に励んだ基地の跡を眼下に見下ろした時は、私はもちろんだが家族も感動したようである。

最初、有志の手により基地のあった古江に建てられたが、内海八幡神社の温かいご理解のもとにこの山に移された由である。時を同じくしてここで苦楽を共にした艇長講習員の戦友会が結成され、昭和60年以来毎年30〜40名の戦友がここに集まって慰霊祭を挙行している。私も毎回出席しているが、軍艦旗掲揚、宮司による神事、追悼の辞奉読、軍歌演習などをおこなった後、定宿の寒霞渓荘ホテルで懇談というコースである。

前置きが長くなってしまったが、この宮山八幡の境内の一角に八幡宮と書かれた鳥居があって、その奥に祠があるのだが、その前に「旧八幡神社、伝応神天皇聖跡」と書かれているのに気がついたので、ここに紹介する次第である。詳しい説明が何も書かれていないが、ここからの眺めも素晴らしいので、前述の富丘八幡神社と同様、応神天皇が巡幸の折ここにも立ち寄られたのではなかろうか。

応神天皇はこの地に立って母神功皇后が、倉橋島で建造した船に乗り、下関、香椎を経て韓国に渡り、凱旋の帰途嵐にあって小豆島に漂着したことなどを思い浮かべていたのではないかと想像する。私も応神天皇聖跡の前に立って、眼下の特攻基地跡を眺めていると、学徒出陣で韓国を経て満州国旅順に渡り、特殊潜航艇乗りとなって瀬戸内に戻り、大竹や柳井の潜水学校、倉橋島を経て、ここ小豆島で終戦を迎えるまでのことが走馬燈のように想い出されてくる。

富岡八幡 富丘八幡宮 小豆島 (平8.9)

舟繋ぎ松 応神天皇船繋松跡碑 小豆島 (平8.9)

手植真柏 応神天皇手植えの真柏 小豆島 (平8.9)

宮山八幡 宮山八幡 小豆島 (昭59.3)

応神聖蹟 応神天皇聖蹟 小豆島 (平7.9)

仁徳天皇の即位

・ 野木神社          栃木県野木町野木
・ 宇治墓(莵道稚郎子命の稜) 宇治市莵道丸山
・ 宇治神社           宇治市宇治
・ 宇治上神社          宇治市宇治
・ 難波宮跡          大阪市中央区法円坂
・ 黒媛塚           岡山県総社市上林

謡本の「間狂言」のところに仁徳天皇の即位について次のような記述がある。

「 昔、仁徳天皇難波の皇子と申し給ふた時、宇治の皇子と御位を互いに譲り給ひ、三ケ年の間御位が定まらなかった。百済国から王仁という相人が渡って来たので、これに占はせ、難波の皇子が御位に即き給ふた。」

ところが実際は、仁徳天皇すなわち大鷦鷯(おおさざき)命と、幾人かの異母弟との間に激しい皇位継承の争いがあったようである。
応神天皇には、
第一皇子として前述の大鷦鷯命(おおさざきのみこと)すなわち仁徳天皇
第二皇子として大山守命(おおやまもりのみこと)
第三皇子として莵道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)
の御子がいた。
第三皇子の莵道稚郎子命は末弟でありながら、応神帝に愛されて皇太子に立てられていたが、兄の大山守命はこれを憎んで応神帝の崩御後挙兵し、莵道稚郎子命を宇治に襲った。莵道稚郎子命は逃れて、その命を受けた舟人が大山守命の乗船を宇治川中で覆えし、水死せしめた。
一方、莵道稚郎子命も大山守命の家臣に狙われ、栃木県の野木町にまで落ちのびて危うく逃れた、という伝承があり、野木町野木にある野木神社は莵道稚郎子命を祭神としている。
第一皇子の大鷦鷯命は結局最後に宇治に隠れた莵道稚郎子命と戦って勝ち、仁徳天皇として漸く皇位が継承される訳である。
莵道稚郎子命の古蹟は宇治にあり、宇治市莵道丸山にある宇治墓は命の稜である。朝日山の麓、宇治山田町の宇治神社はもと応神天皇の離宮址で、莵道稚郎子命の宮居の址とされ、莵道稚郎子命を祀り、後に応神・仁徳両帝も合祀された。ここから少し道を上がった東方にある宇治上神社も同じ祭神で、明治初年に上下二社に分かれた上社である。

宇治神社 宇治神社 宇治市 (平8.4)

宇治墓 宇治墓 宇治市 (平8.4)

宇治上神社 宇治上神社 宇治市 (平8.4)

しかし伝説では、大山守皇子は摂政であったけれども、兄の大鷦鷯命に皇位を譲るべく東国へ旅立った。ところが大鷦鷯命の臣等は叛意と誤解して追手をさし向け、山形県の最上川畔で皇子を討った。余目町千河原の八幡神社がその場所で、皇子の身体は七つに斬られて別々に葬られ、それぞれの埋葬地に神社が建てられている。代表格として、新庄市宮内の七所明神は首を葬った第一の宮である。
3年の空位の後皇位を継承した仁徳天皇は皇居を難波すなわち大阪に定めた。従来、同じ中央区の高津神社が難波高津宮址として紹介され、そこにある望遠亭からは市街が眺められ、「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑ひにけり」の仁徳天皇の御製を記した額が掲げてある由である。

難波宮跡碑 難波宮跡碑 大阪市中央区  (平5.11)

難波宮跡 難波宮跡 大阪市中央区 (平5.11)

しかし近年に至ってこの「難波宮跡」が本命視されるようになってきたとのこと。残念ながら私が訪ねた平成5年11月には、現地の案内板は準備中とのことでこの間の事情を簡潔に記した資料は手許にない。吉田孝箸「日本の歴史―第三巻」に次のような記述があるので紹介してみよう。

「 大正2年、陸軍が上町台地の大阪城外壕の南に倉庫を建設中に、奈良時代のものと推定される重圏文(じゅうけんもん)と蓮花文(れんげもん)の瓦が発見されたが、学界ではほとんど取りあげられなかった。
しかし第二次大戦後、山根徳太郎がこの瓦のことを思いだし、その細い糸を手がかりとして、昭和29年から発掘を開始した。市街地のなかで、確証がつかめぬまま、苦闘がつづけられた。山根の姿と、トロイの遺跡を追い求めたシュリーマンのおもかげとを重ね合わせる人も多かった。
発掘調査は宮殿の屋根のものらしい鴟尾(しび)の断片が発見されたのがきっかけとなって始まったが、昭和32年にはとうとう、柱穴の列が発見された。さらに翌年には、それよりも古い層位から、焼けた壁土がつまった柱穴の列が発見された。
建物が5年(686)正月14日、酉の時に、難波の大蔵省(おおくらのつかさ)に失火して、宮室悉く焚けぬ。
とあるので、この下層の建物は、その時に焼けた宮の跡と推定された。発掘が進むにつれて、遺構は二つの時期のものが重なっていることがはっきりしてきた。
いわゆる前期難波宮と後期難波宮である。このうち上層にある後期難波宮は奈良時代の瓦を出土し、天平尺で設計され、平城宮の建物の配置・規模に類似しており、奈良時代の副都としての難波宮であることは確実である。下層にある前期難波宮は・・・(中略)・・孝徳朝に創建された難波長柄豊碕宮を、天武朝に改修された宮の跡である可能性が濃厚となった。」

本書には触れていないようであるが、最近ではこの前期・後期の難波宮の下に仁徳天皇の難波宮が深く埋没されているものと考えられるに至っている模様である。
このあたり一帯は「難波宮跡公園」となっているが、一面の広場で格別の施設や植樹、池水もない。一隅に「歩兵第八聯隊跡」の碑があるのを見ると、かっては軍隊の練兵場として使われていたのではないかと思われる。大阪城も望むことの出来る地点である。
難波宮跡というべきものは、大極殿を模して造られた壇と柱の跡だけであるが、この規模から見ると実際の建物はかなり大きなものであったことであろう。この想像上の建物の上から民のかまどの煙を眺める仁徳天皇の姿を想像しながらここを辞した。

仁徳天皇の皇后磐之媛は嫉妬深いことで有名の由。天皇の愛された美女、吉備の黒媛は皇后に憎まれ怖れて故郷の吉備の国に逃げ帰った。天皇は恋慕やみがたく、淡路に行幸と称して黒媛のもとを訪ね暫く滞在したという。総社市上林にある黒媛塚はその古墳と伝えられる。

黒媛塚 黒媛塚 岡山県総社市 (平9.9)


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