本曲のワキは旅僧とだけあるが、日蓮上人をさすもののようである。他流では日蓮上人が登場する曲は「身延」「現在七面」等いくつかあるようであるが、宝生流ではこの「鵜飼」のみである。
日蓮上人に関する謡蹟は膨大な数にのぼると思われるが、私が訪ね写真に撮ったものをかかげ、若干の補足説明を加えてみることとする。
日蓮上人は貞応元年(1222)、小湊に漁夫の子として生まれた。この寺は文永元年、日蓮上人自ら母の梅菊女の病気平癒を祈念して建てられた荘厳道場堂にはじまり、建治2年(1276)に直弟日家上人がこれを上人の生家の地に移して高光山日蓮誕生寺と呼んだことに始まる。現在は堂塔30有余、境内2万坪、多くの参詣客で賑わっている。境内には日蓮少年像も建っている。
12歳で近くの清澄寺に上った日蓮は、道善坊に師事した。その後比叡山、三井寺、高野山、四天王寺などで修行、32歳で再び清澄寺に戻り、建長5年(1253)、旭の森に立って昇る朝日を拝しつつ、初めて南無妙法蓮華経の題目を唱え、日蓮宗の開宗宣言を行ったという。鴨川市の仁右衛門島にも日蓮が朝日を拝したという神楽岩がある。
誕生寺 日蓮上人はこのあたりで生まれた 千葉県天津小湊町 (平1.8
日蓮少年像 清澄山入山12歳の姿 誕生寺 (平1.8)
清澄寺 日蓮宗発祥の寺 千葉県天津小湊町 (平6.11)
神楽岩 日蓮上人が旭を拝んだところという 千葉県鴨川市 仁右衛門島 (平6.11)
日蓮上人の鎌倉の住居は松葉が谷の草庵で、その地にはいろいろの説があり、長勝寺、妙法寺とも言われるが、安国論寺が最も良く知られている。この寺は立正安国論を執筆した所としても知られ、境内には日蓮上人草庵址の碑、立正安国論の碑、松葉が谷法窟址や焼打にあい、九死に一生を得て避難した南面窟などがある。
長勝寺 ここも草庵址と伝える 鎌倉市材木座 (平6.12)
妙法寺 ここも草庵址と伝える 鎌倉市大町 (平6.12)
安国論寺 草庵址として最も有名 鎌倉市大町 (平6.12)
日蓮上人草庵址碑 この地に小庵を営み立正安国論を書いた旨記されている 安国論寺 (平6.12)
立正安国論碑 その一節が刻まれる 安国論寺 (平6.12)
松葉が谷法窟址 碑が立つ 安国論寺 (平6.12)
南面窟 松葉が谷の法難でここに避難 安国論寺 (平6.12)
鎌倉駅の東方、小町大路に面した一角に日蓮辻説法跡があり、毎日日蓮が民衆に向かって法華経を説いた場所といわれ、垣をめぐらした中に「日蓮大士辻説法之霊跡」の石碑が建っている。辻説法では自己の信念を主張、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と他宗を罵倒、幕府をも攻撃したので、遂に捕えられ伊豆伊東に配流されることとなる。
この説法跡の南、夷堂橋のそばに本覚寺がある。日蓮が佐渡の配所から鎌倉に戻って滞在した夷堂の跡に門弟の日出が創建した寺で、日蓮の分骨を身延から移したので東身延山とも称されている。
「日蓮大士辻説法之霊跡」の碑 鎌倉市小町 (平6.12)
本覚寺 東身延山とも称される 鎌倉市小町 (平6.12)
伊豆配流となった日蓮は、由比ケ浜より船に乗せられ、伊豆伊東沖の絶壁の下、俎岩に置き去りにされたが、小舟で通りかかった漁師弥三郎に助けられて上陸した。現在蓮着寺のある地と言われる。
上人は蓮着寺奥の院の蓮着寺祖師堂に謫居すること2年、鎌倉幕府より赦免になり鎌倉へ帰った。海岸には上人が濡れた衣を掛けたという衣掛けの松やお経岩がある。
俎岩・日蓮崎 断崖が日蓮崎、その左の沖に見えるのが俎岩。日蓮上人はここに置き去りにされた 伊東市日蓮崎 (平6.3)
蓮着寺 日蓮上人が助けられた地に建てられた寺 伊東市日蓮崎 (平6.3)
蓮着寺奥の院 日蓮上人を救った漁師弥三郎が建てた庵、後に手を加えられた 蓮着寺 (平6.3)
お経岩 日蓮上人がお経を唱えたと言われる岩 伊東市日蓮崎 (平6.3)
日蓮袈裟掛の松 助けられた上人がこの松の根元に濡れた衣を掛けて休まれたと言う 蓮着寺 (平6.3)
一方ここより北5、6キロの川奈にも同じような伝説がある。
川奈海岸の俎岩の残された日蓮上人を弥三郎がお救い申しあげ、己の命をも顧みず、漁具を納めている洞窟内に匿い、30余日の間人目を忍びつつ御給仕を申しあげた。その洞窟にかけて建てられたのが御岩屋根祖師堂である。またその船守弥三郎の5代の孫の五郎兵衛が得度して蓮慶となり、自宅を寺として日蓮と弥三郎夫妻を弔ったのが船守山蓮慶寺である。境内には日蓮上人の像、漁師弥三郎夫妻の墓がある。
御岩屋祖師堂 日蓮上人を救った漁師弥三郎はこの洞窟内に匿ったという 伊東市川奈 (平6.3)
蓮慶寺 日蓮上人を救った漁師弥三郎の五代目の孫が建てた寺 伊東市川奈 (平6.3)
漁師弥三郎夫妻の墓 蓮慶寺境内 (平6.3)
日蓮上人像 蓮慶寺境内に建つ 蓮慶寺 (平6.3)
赦されて鎌倉に帰って間もなく、文永5年(1268)には日蓮の予言が事実となって現われ、かねて日本の降伏を求めていた蒙古が最後通牒を日本に送ってきた。日蓮は強硬な蒙古調伏の論陣を張ったため、幕府に捕えられ今の竜口寺で処刑されることとなったが、その寸前に電光の奇蹟により大刀持ちの眼が眩み処刑が中止された。龍口寺の境内に龍の口法難刑場跡がある。また佐渡の歴史伝説館には龍の口法難の人形が展示されている。
中止された処刑を鎌倉に報告する使者と、霊夢による鎌倉の赦免の使者が七里が浜の中央で行き合った。行合川がその場所といい、行合橋が架けられている。
また、この近くの霊光寺は文永8年大旱魃の時ここの池畔で雨乞いを祈ったところ、忽ち甘雨が地をうるおしたといい、境内に「日蓮大菩薩祈雨之旧跡」の碑や日蓮の立像がある。
死一等を減ぜられた日蓮は佐渡に配流されることとなる。
龍口寺 日蓮法難の地 藤沢市片瀬 (平8.2)
龍の口法難刑場跡 奇跡により日蓮助かる 龍口寺 (平8.2)
龍の口法難 佐渡歴史伝説館に展示される人形 佐渡真野町 (平7.6)
行合橋より行合川を望む ここで双方の使者が行き合ったという 鎌倉市七里ヶ浜 (平8.2)
日蓮大菩薩祈雨の旧跡也の碑 ここで雨乞いをした 鎌倉市七里ヶ浜 霊光寺 (平8.2)
日蓮立像 鎌倉市七里ヶ浜 霊光寺 (平8.2)