勝長の墓

謡蹟めぐり  柏崎 かしわざき

ストーリー

小太郎は主君柏崎殿に随行して、訴訟のことで鎌倉へ逗留していたが、主君柏崎はふとした風邪から遂に空しくなった。この急逝を悲しんだ一子花若は何処とも行方が分からなくなってしまったので、小太郎は主君の形見の品々と、花若の手紙を持ってはるばる故郷越後の国柏崎の里に帰ってきた。
柏崎では独り淋しく留守居している奥方が、都の空を懐かしみつつ、ひたすら主の帰国を待ちわびている。そこへ小太郎が帰ってきたというので、喜んで迎えいれるが、小太郎の言葉を聞いているうちに胸ふさがり、涙にくれるのであった。遺した文を読むにつけ、形見の品を見るにつけ、奥方の悲しみは増してついに狂わしくなって何処ともなく迷い出てしまった。
信濃の国善光寺の住僧は幼い弟子を伴って毎日如来堂へ参詣していると、ある日一人の狂女が来て御堂の内へ入ろうとする。これをとめようとすると、かえって仏説を述べて僧を驚かし、夫の遺品を寄進するといって烏帽子直垂を取り出し、夫のありし昔を偲んで舞を舞い、はては我が子の行方を案じつつ、願いを叶えてくれと御堂に手を合わせて夜念仏を唱えのであった。幼い法弟がこの狂女をみるとまさしく自分の母親なので花若と名乗り、互いに再会を喜ぶのである。(謡本の梗概を参考)

謡蹟 香積(こうしゃく)寺 (新潟県柏崎市西本町) (平7・2記)

香積寺が本曲前段の舞台と聞いて訪ねてみた。目的地に着いたが、普通のお寺と違って山門はない。代わりに二本のコンクリートの柱が建っているのだが、寺の名前がどこにも見当たらない。場所を間違えたかと思ったが、左側の柱に寄りかかるようにして白い木製の標柱が立てかけられており、それには「柏崎市文化財、史跡、柏崎勝長邸跡」と書かれている。間違いなく本曲の舞台である。
お寺の境内に入ると右手に秋葉神社と称する小さなお堂があり、お堂の前に柏崎権守勝長、妻と子の墓碑と勝長の石碑、および妻の尼像がある。

境内にある謡曲史跡保存会の案内を紹介する。
「       謡曲「柏崎」と香積寺
謡曲「柏崎」は、越後国柏崎の豪族が訴訟のため鎌倉に滞在中に病死した。一子花若はこれを悲しみ出家してしまった。その臣小太郎は形見の品々を持って柏崎に帰り、花若の母に事の次第を告げる。
二重の悲しみに母は狂乱の体となり、わが子をたずねて迷い出る。信濃善光寺に辿り着いた女は、夫の後生前所と、わが子との再会を祈ると、折よくこの寺に居た花若と再会を得るという物語である。
香積寺境内には柏崎親子三人の墓と供養塔がある。近くにある質素なお堂は、柏崎勝長が鎌倉に出向く際に火災のお守りとして祀った秋葉神社で、それが今もなお守り続けられているのを見ても、庶民の辛苦を訴えた領主の優しい心を連綿と受けついでいる姿がほほえましく思われる。また花若地蔵尊が長野市新町にある。  謡曲史跡保存会  」

香積寺 香積寺 柏崎市西本町 (平6.10) 本曲前半の舞台、柏崎勝長の邸跡である

秋葉神社 秋葉神社 香積寺境内 (平6.10) 寺を入って右側の小さな神社で、ここに墓や碑がある

勝長の墓 柏崎親子三人の墓と妻の尼像 香積寺境内 (平6.10)

謡蹟 善光寺  (長野市) (平7・2記)

本曲後段の舞台である。なお、ワキの道行などに善光寺が謡われる曲としては「山姥」「藤」がある。
平成5年8月、宝生流教授嘱託会の全国大会が長野で開催されたが、物故者の法要がこの善光寺で行われた。その際、長野県支部の方が「善光寺案内」を作成して下さったので、抜粋してみよう。

「     定額山善光寺案内   平成五年八月七日 長野県支部
1.善光寺本坊大勧進(天台宗)
  勧進とは「神仏のための寄付をすすめる」という意味。大僧正のおすまい。
2.善光寺本坊大本願(浄土宗)
  お上人樣のおすまい。
3.仁王門
  宝暦2年(1752)に造られたが、二度の火災にあい現在のものは大正7年に
  造られたもの。
  仁王樣は高村光雲、米原雲海の合作で13.6メートル。
4.元善町(もとよしちょう)
  元善町とは元・善光寺の如来堂があった場所であることを示している。
  昔、如来堂は民家に近く、しばしば類焼の難にあった。そこで元禄7年、
  境内の北に再建工事をはじめ、宝永4年現在の本堂(如来堂)が完成した。
  その後、正徳2年に如来堂旧地に延命地蔵を造立したが、この地蔵は弘化4年の
  善光寺大地震と、明治24年の2回類焼している。
  現在のものは第2次大戦後の再興。
5.六地蔵
  江戸時代に造られたものは、昭和17年に供出され昭和29年に再興。
  衆生が善悪の業によっておもむくところの六つの迷界、すなわち、
  地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間、天の六つの世界(六道)それぞれの
  苦しみを救って下さる地蔵。「六道の辻とかや」(熊野)
6.ぬれ仏(大仏地蔵・重要美術品)
  享保7年三水村普光寺の僧、法誉円信が日本回国六六部供養の記念に
  広く施主を募って造立。
  なぜか、この仏は八百屋お七の冥福を祈って吉三郎がたてたという俗説があり、
  又もれがふしぎにうけいれられている。
7.山門(三門・重要文化財)
  昔は現在の仁王門の位置にあったが、延享2年に造りはじめ、寛延3年に完成、
  二層の入母屋造り、屋根は本堂と同じく桧皮(ひわだ)葺きで、
  上層内部には文珠菩薩と四天王像が安置されている。
8.鐘楼
  南無阿弥陀仏に因んで六本の柱
9.金堂(本堂・国宝)
  現在の本堂は、宝永4年に完成したもので正面23.6メートル、
  奥行52.8メートルの非常に奥行の深い建物、撞木造りといわれ、
  鐘をたたく木の槌のような丁字形をしている。
  内々陣が仏殿、内陣、外陣の拝殿に当る部分が大きくとってあるのが特徴である。
  善光寺はもともと大勢の人々の信仰心でもり立てられた寺で、お詣りする人は
  本堂でおこもりをする習慣があったので、信者がお詣りをしたり、
  泊ったりする場所を広くとる必要があった。
  「一遍上人絵」にも今の本堂に近い形式のお堂が書かれている。
  このような形式は長い間にだんだん発達したもの。
  三十年程前までは、7月31日に盂蘭盆(うらぼん)にはたくさんの参詣人が
  回廊にこもり通夜をした。
  焼き餅を持ってくる習慣があり、子供の頃その焼き餅を貰いに行ったこともある。
10.翠山先生石碑(次項 翠山先生岡本君碑 参照)
11.むじな灯籠
  寛保3年に下総葛飾郡の念仏講中が建てたもの。
  昔、ムジナが人間に化けて善光寺に参詣し、この夜燈を寄進したが、
  宿泊先の白蓮坊で入浴中に人間に正体を見破られ逃げ去ったという伝説がある。
12.佐藤兄弟供養塔
  源義経の家来で、それぞれ義経の身代りとなって死んだ佐藤継信・忠信の母
  (謡曲「摂待」のシテ)が善光寺に詣り二人の冥福を祈ってたてたといわれる供養塔。
13.護摩堂
  本尊は不動明王、家内安全、現世利益、商売繁昌、幸福等を祈願する。
14.放生池
  謡曲「放生川」の8頁に次の文がある。
  シテ「さればこそ放生会とは、生けるを放す祭ぞかし、御覧候へ此魚は、
  生きたる魚を其ままにて、放生川に放さん為なり・・

(付)
ナ マク サ マン ダ バ サラ ナン・セン ダ・マ カ ロ 
シャ ナ・ソハタ ヤ・ ウン タラ タ・ カン マン
不動尊真言  黒塚のキリ等に使われているものの原型であろう。この真言を唱へる者は一切清浄にして諸々の厄難をはらい大願を成就するものである。 」

翠山先生岡本君碑  (長野市 善光寺境内) (平7・2記)

善光寺本堂に向かって左側の境内に、高さ2.7メートルに及ぶ大型顕彰碑がある。この碑について、教授嘱託会全国大会の際資料が配布されたので、その概要を紹介する。
この碑を理事長の大谷龍祐氏が読んで、明治前期の長野県では宝生流謡曲が大変盛んであったことを知ったが、風化のため碑文の下部が剥落して読めないので、長野県支部小林武氏に碑文の調査を依頼した。
小林武氏が調査した資料を針生武巳前理事長に解読してもらったものを、長野県支部の牧悟氏が訳文した。
資料には「碑文」と、「碑文資料」として漢文に返り点などを附したもの、針生武巳氏が解読したもの、牧悟氏の訳文が掲載されているが、ここでは内容紹介を優先して、牧悟氏の訳文を紹介することとする。

「         翠山先生岡本君碑
長野県に宝生流謡曲師として名を馳せた人に翠山先生岡本君という人がいた。岡本君の名は隆則、淳之進といい、幼名を恒三郎といった。翠山は岡本君の雅号である。岡本君は、新潟県の長岡藩主であった牧野忠雅の家臣である原田隆晴の三男である。母は阿部氏の系統の人であった。
長野に岡本弥右衛門という人があって、この人に男の子が無く、岡本君を養子として迎え弥右衛門の娘と結婚させたことから、岡本氏を名のるようになった。
岡本君は生来才智に勝り、多方面にわたってすぐれた能力をもちあわせていた。
高安信均に就いて宝生流謡曲を学び、稽古を積み、遂に宝生流の奥儀を究めるまでになる。
謡曲は猿楽を源とした芸能である。足利氏の全盛期である室町時代以降はことに隆盛をたどった芸能である。ことに、諸候が朝廷に諸物を献上したり、御機嫌うかがひや会議の折りの儀式や、天子に拝謁した時の酒宴にはかならず謡曲をうたったり、ひと舞いを添えたりして、宴席における厳正さの中に歌舞をとうしたうるおいや、心の交流を密にするためには欠かせない演技心得として大切に扱われた。
そのような時代の流れの中で、長野の地も謡曲が一層盛んになり民衆の間に定着していった。
岡本君に就いて謡曲の稽古を受けた門下生は千人をはるかに越す数であった。
岡本君は元来武士であって、常日頃兵法をよく学び、槍術、剣術はもとより騎馬術、弓術、鉄砲の技術に至るまで文武百般その道に通じない兵法分野は無かった程の人であった。さらにそのかたわら、俳句の道にも通じ、俳句や連歌の座においても名作品を発表して人々を驚かすほどであった。
又、小笠原式礼法も学び、絵画の世界においては特別に力作をものにしていた。これは絵画の師として四條派の岡本豊彦に就いてよく学び、後に四條派を支える大家となった人であり、この世界でも門下生多く数百人を擁していた。
岡本君は文政7年3月5日(1825)に生れ明治24年1月9日(1892)に逝去している。享年67歳であった。長野県庁南の妻科にある先祖の墓地に葬られた。
岡本君は妻との間に二人の男の子をもうけた。長男隆之助は若くしてこの世を去り、次男である淳吉が岡本家を相続した。女の子が一人あって嫁いだが、嫁ぎ先においてこれ又父より先にこの世を去っている。
明治30年10月(1898)門下生集まり、師である岡本君の限りない業績、足跡、恩恵が忘れ去られることをおそれ、適地として善光寺境内を選び、そこに石碑を建て、碑文によって永久にそれを賛え伝えようとくわだてた。
淳吉が私のところへ参って、碑文を書いてくれと依頼されたことから碑文の文案を作成した。その文案として岡本君の歩み来った生涯を概観し、人と成ってからのその事蹟や活動を洩れなく表現したのがこの文である。
岡本君には、ほんとうにこのよきあとづぎの子があって、父の家業が引き継がれた。さらに岡本君にはよき門下生があったので、今こうしてその業績をこの石碑に彫って永久に顕彰されようとしている。
岡本君の家業も業績も正に不滅であり不朽である。
岡本君よ、君はたしかに不朽である。
      明治30年10月
     従七位     城井寿彰  撰文 (撰文を作った人)
     正五位子爵   牧野忠篤  題額 (題字を書いた人)
     従三位勲三等  西岡逾明  丹書 (本文を書いた人)  」
 

善光寺 善光寺 長野市 (平5.8) 本曲後段の舞台である

岡本君碑 翠山先生岡本君碑 善光寺境内 (平5.8) 長野県の宝生流謡曲発展に貢献された方

国分寺  (新潟県上越市五智)  (平7・2記)

本曲の後段に「柏崎をば狂い出て、越後の国府に着きしかば、人目も分かぬ我が姿」とある。
國府址は諸説あって特定できない由であるが、五智には国分寺があり、国分寺の近くには国府の町名が残されているので、国分寺五重の塔の写真を掲げることとする(本堂は修理中)。
国分寺の近くには私が定年まで勤めたKDDの直江津海底線中継所がある。あるいはこのあたりを本曲のシテさんは通ったのかも知れない。

国分寺 国分寺 上越市五智 (平6.11)


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