能田村後シテ

謡蹟めぐり  田村1 たむら

ストーリー

都見物に出掛けた東国の僧が、弥生半ばに清水寺に着き、爛漫と咲くたそがれ時の桜を眺めています。そこに箒を手にした一人の童子が現れて木陰を掃き清めます。
僧がこの寺の来歴を尋ねると、童子は清水寺建立の縁起を詳しく語ります。また、僧に辺りの名所を教え、共に桜月夜の風情を楽しみます。その様子がどうも唯人とは違うように思えて僧が童子に名を尋ねると、私の名を知りたいのなら、私の帰る方を見ていて下さい、と田村堂の中へと姿を消します。
僧が夜すがら桜の木陰で経を読んでいると威風堂々たる武将姿の坂上田村丸の霊が現れます。そして、勅命を受けて鈴鹿山の賊の討伐に出た折、合戦の最中に千手観世音が出現し、その助勢によって敵をことごとく滅ぼした、という軍物語をして観世音の仏力を讃えます。(「宝生の能」平成13年5月号より)

思い出  能「田村」演能と『能「田村」とその周辺』  ( 平4・6記)

昨年6月、宝生能楽堂における渡雲会の春季大会で能「田村」を舞わせていただいた。私にとっては、始めてのシテ役であり、思い出深いものとなった。
その際、『能「田村」とその周辺』なる資料を作成、見にきていただいた方にお配りした。約30頁の小冊子であるが、それでも原稿を書くためには、坂上田村麻呂についていろいろの書物を読んだり、その謡蹟めぐりの旅行をしたりして、このことが能を舞ったのと同じく良い思い出となっている。
ここでは能の写真と、この小冊子で紹介した謡蹟のみを取りあげることとする。

能田村前シテ 能 「田村」 前シテ(童子) 宝生能楽堂 (平3.6)

能田村後シテ 後シテ(坂上田村麿) 宝生能楽堂 (平3.6)

「田村」の謡蹟(演能資料に収録分)  (平3・5記)

はじめに

6月2日の演能を控えて、4月2日から4日まで、京都、近江、伊勢に「田村」の謡蹟を訪ねてみた。
山科にある坂上田村麻呂の墓に詣で、本曲前半の舞台である清水寺では、観音さまにお参りし、前シテの童子になったつもりで、曲中に出てくる名所(歌の中山清閑寺、今熊野、鷲の尾の寺、音羽の山)を眺め、地主の桜を賞で、田村堂を見る。
曲中に出てくるところをできるだけ訪ねようと、前記の清水寺付近の名所のほか、坂上田村麻呂が鈴鹿の悪魔を鎮めるため、伊勢に向かったと思われる道を辿って、逢坂の関、粟津の森、石山寺、瀬田の唐橋、鈴鹿峠、伊勢の海、安濃の松原などを訪ねてきた。 「田村」の稽古をしていてこれらの地名や寺の名が出てくる度に、今回訪ねた光景が思い出されて、この曲の理解に大いに役立ち、今後もよき想い出になるものと思っている。
訪ねたこれらの謡蹟について、簡単に触れてみることとする。

坂上田村麻呂の墓   京都市山科区

以前にも訪ねたことがあるが、今回は格別の思いで参詣し、「田村」を演能することとなった旨を報告、加護を祈った。
近くにある醍醐寺三宝院の庭園に「藤戸」の曲に出てくる「浮洲の岩」があると聞き訪ねてみた。みごとな庭園内に配置されていたが、藤戸に戻してやりたい気もする。
境内には紅白の幔幕が張りめぐらされ、満開となったしだれ桜と見事に調和しており、太閤の花見気分をちょっぴり味わうことができた。

田村麻呂の墓 坂上田村麿の墓 (平3.4)

清水寺・地主権現・田村堂 京都市東山区

「そもそも当寺清水寺と申すは大同二年の御草創、坂の上の田村丸の御願」になる寺で本曲前半の舞台となる所である。
曲中に出てくる
「それ花の名所多しといへども、・・此寺の地主の桜にしくはなし」
「御覧候へ音羽の山の嶺よりも、出でたる月のかかやきて、此地主の桜にうつる景色、まづまづこれこそ御覧じ事なれ」
「春宵一刻、価千金、花に清香、月に影」
の文句にひかれて、地主の桜が満開の頃、しかも音羽の山から月の出る頃と思って、この時期を選んで来てみたのだが・・・
昨年を基準にこの時期を選んだが少し早すぎたようだ。お寺入口の石段のそばの桜は満開だったが、境内の桜はまだ咲いておらず、地主の桜は何代目になるのか知らないがまだ若い木で、これも咲いていないのは残念であった。
案内板によると、この桜は八重と一重の花が同時に開く珍種で、日本でもこの一本が現存するのみだそうである。
春宵一刻価千金の月と桜を期待してきたのだが、お寺は午後六時には閉門となるので、月の出るまで待ってはおられなかった。しかし、運よく日没の光景を殆ど人影のなくなった清水の舞台から眺めることができ、これも「春宵一刻価五百金」くらいの値打ちはあったのではないかと思っている。
前シテの童子が「月のむら戸を押し明けて内陣に入らせ給うた」田村堂はこのあたりと思って探すが見あたらない。拝観受付の人に確かめると、本堂(舞台)に入る手前の「開山堂」と書いてあるのが「田村堂」とのこと。
三重の塔が最近修復されたばかりで、朱色の塔が鮮やかに浮かび上がっているのと比べ、この田村堂は古色蒼然としていて、それなりに坂上田村麻呂にふさわしいお堂のように見受けられた。

清水寺 清水寺 (平7.9)

地主の桜 地主の桜 (平3.4)

春宵一刻 春宵一刻値千金 清水寺 (平3.4)

田村堂 田村堂 清水寺 (平7.9)

<追記 平18・12記> 阿弖流為(アテルイ)の顕彰碑

本年11月紅葉と訪ねて京都の寺を廻った際に、清水寺の舞台の下に阿弖流為の顕彰碑のあるのを発見したので写真を紹介する。顕彰碑には次のように刻まれている。
「 八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市北方)を本拠とした蝦夷(えみし)の首領、阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し、十数年に及ぶ奮闘も空しく遂に坂上田村麿の軍門に降り同胞の母禮(モレ)と共に京都に連行された。
田村麿は敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命を嘆願したが容れられず、アテルイ、モレ両雄は802年河内国で処刑された。
この史実に鑑み、田村麿開基の清水寺境内にアテルイ、モレ顕彰碑を建立す。 」

阿弖流為顕彰碑 阿弖流為、母禮の顕彰碑 清水寺 (平18.11)

子嶋寺   奈良県高取町

「昔大和の国子嶋寺といふ所に、賢心といへる沙門」と出てくる子嶋寺である。奈良県も吉野山に近いほうの、壺坂寺に近い所にある。一昨年、西国札所めぐりで壺坂寺にお参りした時に、ここも参詣した。
「田村」ゆかりの寺とは聞いていたが、この寺の賢心さんが坂上田村麻呂と力をあわせて清水寺を創建されたとは知らなかった。
「木津川の川上より、金色の光さししを、尋ね上って」老翁に逢い、大伽藍を建立することとなったと書いてあるが、子嶋寺から木津川まではかなり遠く、また現在の木津川は石清水八幡宮あたりで淀川に合流していて清水寺の方には行っていない。川上をたどると伊賀上野の方に行ってしまいそうだ。とにかく金色の光を頼りにかなりの紆余曲折を経て、現在の清水寺の地に辿りついたものであろう。

子嶋寺 子嶋寺 (平1.5)

歌の中山、清閑寺   京都市東山区

「あれこそ歌の中山清閑寺、今熊野まで残りなく見えて候」と名所教えの第一番に出てくるお寺。前回清水寺に来た時はここから子安塔を経て歩いてお参りした。
境内に小督の局の墓がある由である。
今回は日が暮れてしまったので、寺の入口付近まで行ったが引き返してしまった。

今熊野観音      京都市東山区

ここも西国札所になっているので、参詣しているが、「坂上田村麻呂の墓」に近いので今回も参詣した。
京都市の地図を開いてみると、確かに清閑寺も今熊野も、清水寺からは「南にあたって」いる。

今熊野観音 今熊野観音 (平3.4)

鷲の尾の寺(正法寺)  京都市東山区

「北に当って入相の聞え」るのがこの寺である。今は本堂と茶室などがあるだけの小さな寺で、おばさんが一人いてお茶を出してくれた。お話をききながら素晴らしい眺望を楽しむ。石段の真下に見えるのが八坂塔とのこと。
かっては三十三寺、四十二棟を誇る大寺だったというから、本曲の旅僧が訪ねた頃は清水寺からもよく見えたのであろう。

正法寺 正法寺 (平3.4)

逢坂山関址      大津市大谷町

「田村」も後半に入ると勢州鈴鹿の悪魔を鎮めるため、軍兵をととのえ、清水の観音に祈念し、逢坂山を越え伊勢路に向かうこととなる。
地図によると国道一号線の大谷駅付近にその関址があるようなので、注意しながら走ってもらったところ、運よく見つけることができた。車を止めてもらい写真をとる。
立派な道路が出来た現在でも昼なお薄暗いほどの木立が続いている。「田村」「蝉丸」等々、沢山の曲に逢坂山が出てくるがその主人公たちはどのような思いでこの山を越えたことであろう。
近くに「蝉丸」ゆかりの「蝉丸神社」「関蝉丸神社」があるので、参拝する。

逢坂山 逢坂山関址 (平3.4)

粟津の森   大津市粟津町

「逢坂の山を越ゆれば浦波の、粟津の森やかげろふの、石山寺を伏し拝み」とあるが、琵琶湖の南端のあたりに粟津町という地名が残っているので、この辺りの森をさすのであろう。すっかり市街地になっていて車で通っただけでは、めぼしい森も見つからなかった。
しかし、近くに「巴」ゆかりの「義仲寺」や「兼平」ゆかりの「兼平の墓」があり、参詣することができた。

石山寺 大津市石山寺

ここも西国札所で訪ねた所であるが、今回は田村麻呂が「伏し拝んだ」寺として、あらためて参詣した。
境内からの瀬田川、琵琶湖方面の眺めは 素晴らしい。
この寺は「源氏供養」ゆかりの寺でもあり、ちょうど紫式部展が開かれていたので拝観してきた。(写真は「源氏供養」参照)

瀬田の唐橋   大津市瀬田町、唐橋町

「瀬田の長橋踏みならし」とあるので、車で素通りしては申し訳ないと思い、車を降りて歩いて橋を渡った。
橋の上を歩きながら考える。
今この橋の近くだけでも、鉄橋が二つ、車の通る橋が三つもかかっており、さらに琵琶湖には近江大橋や琵琶湖大橋、瀬田川の南の方には京滋バイパスなども出来て、交通も便利になっているが、当時、この川や湖の東西を結ぶ橋はこの瀬田の唐橋だけだったのではないか。とすると都を護る戦略上の重要性は現在の私どもの想像するより大きいものがあった訳で、この橋も昔から幾多の合戦を身をもって体験し、眺めてきた訳だ・・
また、橋があまりなかったので、往時は「竹生島」「兼平」「三井寺」などに出てくるように「山田矢橋の渡舟」なるものが、かなり頻繁に往来していたのかも知れない・・・

瀬田の唐橋 瀬田の唐橋 (平3.4)

田村神社   滋賀県土山町

田村麻呂は瀬田の唐橋を渡った後、鈴鹿山に向かうが、その道は旧東海道であったろう。現在も国道一号線が鈴鹿峠を越えて三重県に出ている。そして、鈴鹿山の少し手前に田村神社がある。
JR利用で草津駅で乗換え、草津線で三雲駅で下車する。JR線はここから離れて一号線の南を走るので、田村神社に行くにはここからバスかタクシーを利用するしかない。
タクシーで田村神社に参詣、鈴鹿峠を越えることとする。かなり走ったころ田村神社に到着する。鹿島神社を思わせるような、うっそうと茂った木立の間をかなり歩く。広い境内には田村川の清い水が流れ、本殿に到着する頃までには心が洗い清められるような気がする。 
神殿にぬかずいて加護を祈願する。

田村神社略記によると、祭神及鎮座由来として
「 本神社は坂上田村麻呂外数神を配祀し奉る。弘仁三年正月嵯峨天皇勅して坂上田村麻呂公由縁の地土山に鎮祭せられ勅願所に列せられる。実に本社の地は江勢の国境鈴鹿山道の咽喉を占め都より参宮の要衝に当る。古伝鈴鹿山中に悪鬼ありて旅人悩す、勅して公を派して之討伐せしめ其の害初めて止むと、されば数多の行旅の為め其の障害を除き一路平安を保たしめ給う公の遺徳を仰ぎてここに祀らる。 」  

また神矢の由来として
「弘仁元年秋九月勅を奉じて鈴鹿の悪鬼を言向け平げ給いて御弓矢を張り給いて申し給うに、今や悪鬼もなし之より此の矢の功徳を以て万民の災を除かん。此の矢の落ちたる地を吾が宮居として斉き祀れと、放ち給えるに本殿前に 落ち不思議や青々と芽出したるとぞ、現存の矢竹であります。茲に大神の御心を心として神矢を謹製す。」
この由緒ある神矢をお受けして自宅に持ち帰り、神棚に奉って朝晩礼拝している。

田村神社 田村神社 滋賀県土山町 (平3.4)

鈴鹿山  滋賀県土山町と三重県関町県境

現在は国道一号線も鈴鹿山をトンネルで越えてしまうので、鈴鹿峠を通る人も殆どなくなってしまったようである。
トンネルを出た所で運転手さんは車を止め、鈴鹿峠の看板の出ている山を指さしてくれた。また、鏡と書かれた岩も見えたがこれは昔、鈴鹿の鬼どもが、この岩を鏡のように磨いてこれに映る旅人の姿を見て襲ったという。

鈴鹿峠 鈴鹿峠 (平3.4)

伊勢の海、安濃の松原  津市

「ふりさけ見れば伊勢の海、安濃の松原むらだち来って」とある安濃の松原は津市の安濃川が伊勢湾にそそぐあたりの海岸の松原のようである。昔はもっと立派な松原であったと思うが、現在でもなおその名残をとどめている。
近くに「阿漕」ゆかりの「阿漕塚」があるので訪ねてみた。

安濃の松原 安濃の松原 (平3.4)

多賀城址      宮城県多賀城市

昨年六月、教授嘱託会の東北支部大会が多賀城市民ホールで開催され、これに出席のおり、多賀城址を訪ねる機会があった。
坂上田村麻呂は蝦夷を平らげるため東征したが、その根拠地がこの多賀城であった。討伐が進んだ後に多賀城は政治上の根拠地、胆沢城が軍事上の根拠地となる。
多賀城址を訪ねた時はちょうど、「あやめまつり」が開催されており、見渡す限りのあやめ畑に色とりどりの花が咲き誇っていた。

多賀城址 多賀城址 (平7.6)

あやめ畑から少し離れた丘に「壺の碑」という古碑があり、上野(群馬県吉井町)の「多胡碑」、下野(栃木県湯津上村)の「那須国造碑」とともに、「日本三古碑」と言われ、壺碑は覆堂に収められている。
碑面には、
西
 多賀城
 京を去る一千五百里
 蝦夷国界を去る一百二十里
 常陸国界を去る四百十二里
 下野国界を去る二百七十四里
 靺鞨国界を去る三千里
 此の城は神亀元年・・・・
 大野朝臣東人の置くところなり・・・」  の文言が刻まれている。

壷の碑 壷の碑 (平7.6)


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