兼平庵・墓の碑

謡蹟めぐり  兼平 かねひら

ストーリー

木曽の山家の僧が、江州粟津の原で討死した木曾義仲の跡を弔いたく思い、日をついで矢橋の浦までやって来ます。するとそこへ一人の老人が紫舟に棹さして通りかかるので、僧が便船を頼むと、老人は渡し船ではないと一度は乗船をこばみますが、出家だからと舟に乗せることにします。老人は僧の尋ねるままにあたりの名所など教えていたのですが、やがて舟が粟津の浦へ着いた時にはもうその姿は見あたりませんでした。
夜に入り、僧が木曽義仲の亡き跡を弔っていると、そこに颯爽とした一人の武者が現れて今井の四郎兼平と名乗ります。武者は先程の舟の老人も自分であると言い、義仲の討死した当時の様子などを詳しく物語ります。そして主君の跡を弔ってほしいと頼んだ後、自分の悲壮で凄惨な最期の有様を僧に語って聞かせたのでした。(「宝生の能」平成12年2月号より)

今井兼平の墓 (滋賀県大津市晴嵐) (平7・5記)

琵琶湖の水はその南端から瀬田川となり、その下流は宇治川、さらに淀川となって大阪湾に注ぐ。この琵琶湖が瀬田川となるあたりに瀬田の唐橋がある。古来戦略上の要衝として幾多の戦いが繰り広げられた所であるが、木曽義仲、今井兼平もこのあたり粟津ケ原において武運つたなく敗れて討死した。
東海道線石山駅の近くに現在でも粟津町の地名が残っており、今井兼平の墓はここから線路を隔てた晴嵐町にある。立派に手入れされており、いくつかの顕彰碑もあり、兼平庵なる建物までも建てられていて、兼平を慕う人々が大勢いることを示している。
義仲の墓のある義仲寺はここから琵琶湖に沿って3キロほどの、近江大橋を過ぎたあたりにある。近江大橋を渡れば本曲のワキが老人に便船を頼んだ矢橋の浦に続く。また、兼平の墓から南へ行けば、瀬田の唐橋がありさらに石山寺も近い。ここから宇治方面に出るもよし、また北に向かって三井寺、比叡山に向かうもよい。蝉丸の逢坂山も近い。
話を兼平に戻して、墓所に掲げられた説明に兼平の事蹟を語っていただこう。
「 今井兼平の墓
今井兼平は、源(木曽)義仲の寵臣の武将。寿永3年(1184)正月、源義経、範頼の軍と近江の粟津で戦い、討死した義仲のあとを追って自害した。その最後は、口に刀をふくんで馬から飛びおりるという壮絶なものであった。
寛文元年(1661)、膳所藩主本多俊次は、今井兼平の戦死の地をもとめ、中庄の墨黒(すぐろ)谷(篠津川の上流)に墓碑を建立して、兼平の義勇をたたえた。墨黒谷には、兼平の塚があったといわれその塚のところに建碑したのであった。
その後、寛文6年、次代の藩主康将のとき、参拝の便を考えて、東海道の粟津の松並木に近い現在地に、兼平の墓を移設したという。碑は、明治44年、その兼平の墓を再改修したときのものである。碑文によれば、滋賀県知事川島純幹、膳所町長馬杉庄平、兼平の末裔で信州諏訪の人今井千尋らが発起して、旧跡の規模を拡張し、その参道を改修したものという。 」

兼平庵・墓の碑 今井兼平の墓、兼平庵の碑 滋賀県大津市晴嵐  (平 3.4)
東海道線石山駅の近くに現在でも粟津町の地名が残っており、この碑はここから線路を隔てた晴嵐町にある。

兼平の墓大津市 今井兼平の墓 滋賀県大津市晴嵐  (平 3.4) 木曽義仲、今井兼平はこのあたり粟津ケ原において武運つたなく敗れて討死した。

今井神社、兼平の墓  (松本市今井) (平7・5記)

松本市といっても塩尻市に近い松本空港のあたりである。中央高速を塩尻北インターで降りる。地図にも載っていないので土地の人に聞きながら車を進める。なかなか見つからない。バス通りから少し横に入るらしいのだが、その曲がる場所が分からない。とうとう郵便局に車をとめて局の方に聞いてみた。ちょうどその方が郵便配達に出かけるところで、私のあとについてきなさいという。親切な方に案内していただいてようやく辿りつくことが出来た。
神社は考えていたよりもずうっと立派で境内も広い。鉄製の柱のようなものが何本も建っているので土地の方に聞いてみたら、お祭りの時に幕を垂らすためのものだそうである。それはみごとなものだそうである。境内の一隅には兼平公の墓が立派に手入れして保存されていた。神社の由緒が記されていたので紹介する。

「 今井神社由緒 今井神社はまたの名を兼平神社ともいい、旭将軍木曽義仲四天王の一人、今井四郎兼平を祭神とする。伝うるに兼平公は元来本村に住し義仲公義兵を木曽に起こすや主君に従って信州より北越を略し京都に上る。江州粟津ケ原の戦に討死をとげた。
足利尊氏義仲の遠孫家村を木曽に封じ義仲の祀りを起こさせた時に、今井村は木曽家村に属していたので、有志の者応永年間兼平公の霊を祀ることを木曽家に請い社を建てて祀った。爾来上下今井村民氏子として祭を絶やさず、特に50年忌ごとには大祭を行って今日に至った。
元文5年、東方にあった若宮社を合祀した。この地はもと兼平公の館のあったところ、社の前の道は兼平公が尊崇した西洗馬薬師堂への参詣道といわれている。 」

今井神社 今井神社 松本市今井 (平 6.10) またの名を兼平神社ともいい、今井四郎兼平を祭神とする。もと兼平公の館のあったところといわれる

兼平の墓大津市 兼平の墓  松本市今井 (平 6.10) 今井神社境内の一隅には兼平公の墓が保存されている

木曽の掛橋と矢橋の渡し (長野県上松町・滋賀県草津市) (平13・12記)

曲中にワキの詞として「信濃路や木曽の掛橋名にしおふ・・・矢橋の浦に着きにけり」とある。桟はけわしい崖に橋をかけ、わずかに道路を開いたもので、木曽の桟は寝覚めの床とともにその名が高い。今は国道が通っているが、昔はけわしい岩の間に丸太と板を組み、藤づる等でゆわえた桟だったという。
矢橋の渡しは山田の渡しとともに往時は琵琶湖交通の要衝だったが、現在はその跡を探すのも容易ではない。山田の渡しは跡形も無くなったようであるが、矢橋の渡しは矢橋公園の形で残っていた。灯台の役割を果たしたという「常夜燈」も残っており、船着き場の跡も保存されている。蕪村の句碑「菜の花やみな出はらひし矢走舟」が立っていた。

木曽のかけはし 木曽の桟(かけはし)跡 長野県上松町 (平9.7) 断崖が川に迫り通行に苦労したことが偲ばれる

矢橋の渡し 矢橋の渡し址 草津市矢橋 (平13.11) 当時の灯台「常夜燈」が残る


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