都の方から来た僧が、北国の名所を巡ったあと善光寺詣をしようと信濃の国へ向かう途中、藤の名所の多枯の浦に着きます。僧が、松と交って見事に咲いている藤の花を見ながら古歌を思い出して一人吟じていると、どこからともなく美しい女が現れ、その歌はここの藤にはふさわしくないと僧をとがめます。そして、「多枯浦や汀の藤の咲きしよりうつろう浪ぞ色に出にける」の古歌こそここで詠むべきだと語ったあと、自分が藤の花の精 であることを明かして姿を消します。
多枯の浦の藤にまつわる話を所の者から聞いた僧がその夜藤の花の下で仮寝をしていると、藤の花の精が現れます。そして仏の功徳により花の菩薩になったことを告げ、この様に僧に言葉を交わせるのも自在変身の縁だと喜んで美しい舞をまって見せますが、春の短夜の明ける頃、朝霞と共に消え失せます。(宝生の能 平成10年2月号より)
この神社は天平18年(746)、大伴家持が越中の国守として赴任した時、従者橘正長が、太刀一振を天照大神の霊代として祀り、剣社と名づけたことに始まると伝えられる古社である。明治18年に現在の社名にかえられた。
階段横の藤の巨木は老杉にからみついて天にかけ上り、花の季節には紫の花房をいっぱいにつけ、鳥居を飾る様はみごとである。このあたりは「万葉集」に出てくる布勢の水海の入江の一つで、低地に広がった湖水で氷見潟ともいった。現在は干拓されて、十二潟がわずかに残っているだけであるが、昔は岸の藤波が有名で万葉人が好んで遊覧したところである。
田子浦藤波神社 (平9.6)
田子浦藤波神社石段と藤 (平9.6)
この神社の社殿裏に大伴家持の歌碑がある。萬葉集の原文に従って漢字で書かれているが、現代風に解説してあるのでこれを掲げる。
『 藤波の影なす海の底清み
しずく石をも珠とぞわが見る
奈良時代にはこの神社の前の水田地帯はみな湖水で「布勢水海」と呼ばれており、周囲の丘陵には藤が繁茂し、初夏の頃には紫の藤の花が咲き満ちて、それはそれは美しい光景でありました。家持卿は毎年、初夏の頃に布勢水海に舟遊びをし、藤の花をたたえた歌をたくさん詠みました。これもその一つです。(万葉集巻19、4199番)
「藤の花が影をうつしている水海の水が清らかで、底までよく見える。底に沈んでいる石さえも玉のように私には見える」
その頃の湖の水は澄みきっていてそこへ日光がさしこんで、水底の石が宝石のように輝いていたのでしょう。
・・中略・・
この神社はもと神明社と称したが、家持卿の藤花を詠じた古歌にちなみ、明治18年8月、田子浦藤波神社と改称しました。今も龍が天に昇るような藤の大木が何本も繁っております。
(昭和62年7月記) 』
大伴家持の歌碑 田子浦藤波神社 (平9.6)
十二潟 昔の面影をわずかに残す 氷見町 (平9.6)
曲中に大伴家持の名は出てこないが、間狂言には越中守として登場し、前述の和歌も紹介されている。越中守として5年間滞在したので、高岡近辺大伴家持関係の謡蹟が多い。私が訪ねたところを紹介する。
家持遊覧の地で家持を祀る多胡神社がある。
多胡神社 (平9.6)
布勢の円山は、水田の中に島のように盛り上がっているので、どこから見ても丸く見える。そこからの眺めはありし日の布勢水海を思いめぐらすのに最適である。家持が好んで遊覧したところといい、山上に布勢神社があり、その境内には、大伴家持卿遊覧之地と刻まれた碑や、砲弾の形をした大伴家持卿の碑が建っている。
布施神社 (平9.6)
大伴家持遊覧之地碑 (平9.6)
大伴家持卿之碑 (平9.6)
万葉集に載せられた歌の約1割を占める472首(481首とも)が大伴家持の詠歌であるといわれ、代表的な万葉歌人である。家持が政務をとった国庁跡にほど近い眺望のきく場所に万葉歴史館が建っている。「ふるさとの万葉」をテーマに、映像や音で立体的に構成された常設館や、新しい視点で万葉ロマンを展開する企画展、万葉植物を配した庭園などが楽しめる。
万葉歴史館 高岡市伏木 (平9.6)
越中一の宮として崇敬高い気多神社の近くにあり、大伴家持を祀る。
気多神社 高岡市伏木一宮 (平9.6)
大伴神社 (平9.6)
高岡市、小矢部川の河口、伏木港の近くにある勝興寺が往時の越中国府址と伝えられる。大伴家持は養老2年(718)大伴旅人の子として奈良に生まれ、聖武天皇に仕え、天平18年(746)越中守としてここに赴任した。
その一隅で思いがけず大伴家持の「海行かば」の碑を見つけた。
海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍
大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ
海軍軍人の時、何回歌ったか分からないほど歌わせられ、また、進んで歌った歌。本気で大君のために死んでも、かえりみはしないと思っていたのだから、この歌から受けた影響は大きかった。
勝興寺 高岡市古国府 (平9.6)
海行かば碑 勝興寺 (平9.6)
いまも「東館(ひがしだち)」の地名が残る高台に、家持が住んだといわれ、国守館跡碑が建っている。
越中国守館跡碑 (平9.6)
高岡駅前に大伴家持に若い娘たちを配し、台座に家持の歌を刻んだ大きな像が建っている。歌碑には
かたかごの花をよぢ折る歌
もののふの 八十やそをとめらが 汲みまがふ
寺井の上の かたかごの花 萬葉集第四一四三 大伴家持
と刻まれている。
番号をたよりに解説書を調べてみた。およそ次のような意味のようである。
「寺に泉の湧くところがあって、そのほとりにかたくりの花が咲いている。その泉に多くの娘たちが水を汲みに来て、清くとおる声で話しあう、それが可憐でいかにも楽しそうである。」
大伴家持像と歌碑 高岡駅前 (平9.6)
歌碑の歌の中にある「あしつき」の名のついた公園に歌碑が建っている。
雄神河 くれないにほふ 少女おとめらし
葦附あしつき採ると 瀬に立たすらし
あしつきという植物がどのようなものか知らないのであるが、美しく整備された公園の中を流れる小川に、あしつきを採る乙女たちの姿が浮かんでくるようである。
大伴家持歌碑 あしつき公園 (平9.6)
義経雨晴しの岩の少し高岡よりの国道沿いにある小さな公園に、つままの碑と呼ばれる大伴家持の歌碑がある。
磯の上の 都万麻(つまま)を見れば 根を延(は)へて
年深からし 神さびにけり
家持がこのあたりを訪ねた時、雨晴し海岸の岩上の盤根を露出した見なれない大樹(現在のタブノキ)に驚き、なによりもまだ耳にしたことのない「都万麻(つまま)」の名に異郷を感じ詠じたものとされる。公園の脇を曲中に謡われる「紅葉川」が流れる。
つままの歌碑 高岡市雨晴 (平9.6)
紅葉川 高岡市雨晴 (平9.6)
二上山の山頂近くに大伴家持の像がある。山頂からの眺めも確かに素晴しい。頭の中で、道路や建造物など人工的なものを除き去り、往時、大伴家持が眺めた景色はこのようなものであったかと想像してみる。
大伴家持像 高岡市二上山 (平2.10)
高岡市の対岸新湊市の放生津八幡宮にも大伴家持の歌碑がある。
あゆの風 いたく吹くらし 奈呉の海人の
釣する小舟 こき隠るみゆ
早春の奈呉の浦の風景を歌ったもので、あゆの風とは東風のことで、北から吹いて豊かな海の幸を運ぶという。
八幡宮の裏手には「奈呉之浦」に碑が建っている。家持の訪ねた当時はこのあたりまで海岸が迫り名勝の地だったと思うが、現在は松林がわずかに名残りをとどめるのみ。
境内には祖霊社があり、家持を祭神として祀る。
放生津八幡宮 富山県新湊市 (平9.6)
大伴家持歌碑 (平9.6)
奈呉之浦碑 (平9.6)
祖霊社 (平9.6)
任地高岡からだいぶ離れているが、宇奈月町にも家持の歌碑がある。
鶏の音も 聞こえぬ里に 夜もすがら
月よりほかに 訪う人もなし
家持が領内巡視の折、浦山の上野までくると日が暮れた。熊野権現の社で夜を明かそうとして、この歌を奉納したものと伝えられる。
翌朝早く羽音とともに鶏の声が聞こえてきたので、以来、上野を鶏野と呼ぶようになった。また家持卿手植えの桜は「月訪の桜」と呼ばれ、樹齢数百年を経、昭和7年9月の台風で倒木、そのうんずい(ひこばえ)が二代目として成長、町指定文化財に指定されている。
鶏野神社 富山県宇奈月町浦山 (平9.6)
大伴家持歌碑と月訪の桜 鶏野神社 (平9.6)
神社近くの川の土手に歌碑が建っている。
鵜坂川 渡る瀬多みこのあが馬の
あがきの水に衣 ぬれにけり (万葉集4022)
大伴家持が管内巡行に出発、「越の総社鵜坂神社」のあるこのあたりに来て「鵜坂河」と呼ばれていた渡る瀬の多い神通川を対岸に向かって渡渉した際に詠んだ歌である。
鵜坂神社 富山県婦中町 (平9.6)
大伴家持歌碑 鵜坂神社近く (平9.6)