弁慶割石

謡蹟めぐり  船弁慶3 腰越状、吉野山、逃避行

義経の活躍

平泉で頼朝の挙兵を聞いた義経は、藤原秀衡の制止を振り切って関東へ向う。義経は漸く富士川の戦場へ駆けつけたが、戦いは終っており、黄瀬川の頼朝の陣を訪ねて頼朝に対面した。清水町の「八幡神社」がその跡といい、社殿を左にそって進むと「頼朝義経兄弟の対面石」があり、この石に二人がともに腰をおろし、平家の打倒を誓いあったと伝えられる。

清水町八幡 八幡神社 静岡県清水町八幡 (平6.12)

対面石 頼朝義経兄弟の対面石 八幡神社 (平6.12)

その後、義経は木曽義仲追討に加わり、次いで平家軍を追って、一の谷、屋島、壇の浦の合戦によって全滅させた。これらの戦さに関する謡蹟は、次の曲目の項で紹介したし、紹介する予定のため、ここでは省略する。

木曽義仲追討・・「兼平」「春栄」「巴」
一の谷の合戦・・「敦盛」「箙」「俊成忠度」「千手」「忠度」「経政」「通盛」
屋島の合戦・・・「八島」
壇の浦合戦・・・「大原御幸」「清経」「盛久」

ここでは大阪府和泉市の「松尾寺」にある「首堂」のみを紹介する。寺で入手した説明を抜粋してみる。

「 義経は一ノ谷に戦死した将士の首を舟三艘に積んで当寺に送り、亡魂の菩提を懇ろに弔いました。山門前の首堂はそれであります。新井白石紳書に当寺の模様を詳細に記してあります。「・・平家の一ノ谷破れの首共を埋めし堂也と云ふ。三間四面計りなるが格好よりは縁の高き也、縁の下は悉く髑髏也、・・・」
後天正の兵火にもこの堂のみは不思議に焼け残りましたが、風雨幾百旬遂に屋根朽ち柱傾きた旧体留め難くなりましたから、白骨は集めて甕に入れ地中深く埋めて上に「一ノ谷戦死者之首墓」と記せる石碑を建てました。
寛政八年六百年の遠忌に当って一山衆徒堂前に詣して数刻梵筵をひらき永に霊魂の離苦得業を祈りました。方一間朽葉深くこけむしたるこの首堂に額けが矢叫びの聲剱閲の音今いづこ寥々たる峯の嵐は哀を塚上に語り、粛然たる秋の夜の月に苔青く将士の墓を静に守って居ます。 」

松尾寺 松尾寺 大阪府和泉市松尾寺町 (平10.3)

松尾寺首堂 首堂 松尾寺 (平10.3)

腰越状

壇の浦で平家を滅ぼした義経は、平家の総帥平宗盛父子を引き連れて鎌倉に向った。ところが頼朝は鎌倉に入ることを許さず、義経は腰越に足を留めた。その場所が現在の「満福寺」である。義経は頼朝の側近の大江広元に当て、頼朝に二心のないこと、身命を擲って平家を滅ぼしたこと、讒言を信ぜず理解を頼むことなど認めたいわゆる腰越状を差し出した。
寺には「義経宿陣之趾の碑」が立ち、「源義経公慰霊碑」や「弁慶腰掛石」などがある。林原美術館編の「平家物語絵巻」の中に「腰越」なる絵がある。宗盛父子を連れて意気揚々と鎌倉入りをするはずであったが、手前の金洗沢に関所が設けられ、軍勢が待ち設けている。いぶかしがる義経(右)をおいて、宗盛父子を乗せた板輿は中に入り(左)、締め出された義経は腰越まで追い返される。

満幅寺 満福寺  鎌倉市腰越 (平3.5)

義経宿陣跡 義経宿陣之趾の碑 満福寺(平3.5)

義経慰霊碑 源義経公慰霊碑 満福寺(平3.5)

弁慶腰掛け石 弁慶腰掛石 満福寺 (平3.5)

平家物語絵巻腰越 平家物語絵巻 腰越 林原美術館編より

しかし腰越状も黙殺されたばかりか、平家討伐で得た領地も没収され、やむなく義経は京都に引き返した。

堀川夜討ち事件、都落ち・・・「正尊」「船弁慶」

京都に戻ると今度は「正尊」に謡われる土佐坊昌俊の堀川夜討の事件があり、法皇にも見放されて、義経の運命は一夜にして逆転、追われる身となった。
西国へ逃れようとして大物の浦から船出するが、暴風雨のため難破し辛うじて住吉の浦に漂着した時は、義経のほか弁慶、静など主従わずか5人となっていた。

吉野山潜居

やがて従者も何人か集まり、一行は吉野山に入り、吉水院(吉水神社)に潜んだ。「義経記」には伊勢三郎、熊井太郎、鷲尾七郎、備前平四郎、片岡八郎、常陸坊、武蔵坊、佐藤忠信の名が出ている。ここには「義経潜居の間」があり、境内には弁慶が素手で五寸釘を打ち込んだという「弁慶力釘」がある。

吉水神社 吉水神社  奈良県吉野町吉野山 (平1.5)

義経潜居の間 義経潜居の間  吉水神社 (平1.5)

吉野も僧兵の動きが不穏となり、詮議も厳しくなってきたので、静とも別れ、奈良、京都、比叡山などを転々とした後、平泉に向って逃避行を続けることとなる。

平泉への逃避行 「安宅」の補足

「安宅」の項で述べた北陸路が平泉への代表的な道筋であるが、このほかにもいくつかの道筋を想定させる古蹟が伝えられている。
北陸から中仙道を通って関東に入ったとも考えられ、足利市北方の名草弁天の境内には「弁慶の割石」があり、弁慶がこの石の上に仁王立ちになり、手にした錫杖で「エイッ」とばかりに突いたとkろ、さしもの大石も真っ二つに割れたという。栃木県鹿沼市にも判官塚があるが、「烏帽子折」の項で紹介した。

弁慶割石 弁慶の割石 足利市名草上町 名草弁天 (平8.1)

また、東京は本郷の東大付属病院の裏門に傍らに「弁慶鏡の井」があり、一行が奥州へ向う途中、弁慶がこの井戸を発見し、喉を潤したと伝えられる。

弁慶鏡井戸 弁慶鏡の井  東京都文京区本郷 (平6.11)

千葉県銚子の「犬吠埼」は、一行がここから船出する時、愛犬若丸を残したため、若丸は七日七夜啼き続けて岩に化したといい、犬吠埼の名の起源となったという。

犬吠埼 犬吠埼  千葉県銚子市 (平8.12)

謡曲「摂待」では一行は福島を通過することになっており、関係の古蹟はその項で紹介しており、平泉に着いてから、および北行伝説については「錦戸」の項で述べたので省略する。
なお、静御前についての古蹟もあるが、あまり長くなるので、「吉野静」の項で紹介する予定である。

参考にした資料

主として、木本誠二著「謡曲ゆかりの古蹟大成」により、次の図書も参考にした。
青木 実著  「謡蹟めぐり」
田居 尚著  「源義経の生涯――能楽義経像」
司馬遼太郎著 「義経上・下」
土橋治重著  「源義経」
平凡社刊   「日本架空伝承人名事典」
千宗室・森谷尅久監修 「京都の大路小路」


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