海女の墓

謡蹟めぐり  海人 あま

ストーリー

藤原房前は、自分の生母が讃岐の志度の浦で亡くなったと聞かされて、供養のために当地に赴きます。ちょうどそこへ現れた一人の海女から房前は意外な事実を知ります。
かって唐土から贈られた宝珠の一つがこの地で龍神に奪われたおり、房前の父淡海は事の仔細を調べるために志度へやって来ますが、その際ある海女と契りを結び、一人の子をもうけます。その子が房前だったというのです。
母なるその海女は自分の子を何とかして淡海の後継ぎにしようと、海底に潜り、竜宮へと飛び込み宝珠を取り返して来ます。そして海女は宝珠をたくみに奪取したその有様を再現して見せたあと、実は自分こそ母の霊であると明かして海中に消え失せてしまいます。
房前が回向していると龍神の姿をした母の霊が現れ、成仏を喜び、自らも法華経を讀誦して舞を舞います。(「宝生の能」平成12年2月号より)

謡蹟 海女の墓 香川県志度町 志度寺      ( 平成6・4記)

平成2年5月の名所めぐりに参加して志度寺を訪ねた。海女の墓は木立に囲まれた静かな所にあったが、大きな石塔が沢山並んでいるのには驚いた。
案内には
「           海 女 の 墓
天武の昔、淡海公が藤原不比等は、唐の高祖妃から送られた面向不背の玉が、志度沖で竜神に奪われたため、身分をかくして都から志度の浦を訪れ、純情可憐の海女と恋仲になり一子房前が生れた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海にもぐり竜神とたたかい玉を取り返したが、竜神のため傷つき真珠島で命を果てた。
後年大臣となった房前は僧行基を連れて志度を訪れ、千基の石塔を建てて母の冥福を祈ったという、殉愛悲恋のヒロイン海女の墓である。かたわらに五輪の塔と経塚がある。
毎年旧暦六月十六日には大法会が行われ、十六度市が立ち、千三百余年の昔をしのぶ供養がいまなお続けられている。   志度町 志度町観光協会  」
と記されている。

志度寺 志度寺 この寺の境内に海女の墓がある 香川県志度町 (平2.5)

海女の墓 海女の墓 大きなお墓がたくさん並んでいる 志度寺境内 (平2.5)

謡蹟 雲洞庵(海女の墓) 新潟県南魚沼市塩沢町  ( 平成6・4記)

海女は実は志度の浦では死なず、私の郷里に近い新潟県塩沢町の雲洞庵で尼になったという説がある。
雲洞庵はこの海女が建立し、房前大臣が再建したと伝える古刹で、深山の趣深い山門があるが、裏山に海女の墓があり、寺では先妣尼公(亡母の尼)の墓と呼んでいるという。
この寺は私の実家に近いので、帰郷した折に訪ねたことがあるが、まさか、四国の海女と雪国のこの寺とゆかりがあるとは気がつかなかった。平成3年8月改めて訪ねてみたが、現在お墓へは立ち入り禁止とのこと。どうして海女がここにきたのか聞いてみたが、要領を得ず、資料も置いていないとのこと。残念至極である。
ただ「長生きの水」というのがあって「今より一千三百年前、右大臣藤原房前公の母先妣尼公がこの地に移り住み、山より湧き出ずる霊泉を見い出だされ、沢山の病気で苦しんでいる人々を救われた。以来修行僧、参拝者の心の甘露水として親しまれている」という。

雲洞庵 雲洞庵 房前の大臣が建立した寺で海女の墓がある 新潟県南魚沼市 (昭61.8)

興福寺と薪御能  奈良市 (平12・7記)

興福寺は曲中に謡われる寺である。藤原鎌足の遺志をついで、夫人が山城に建てた山階寺が前身であるが、鎌足の子不比等によって奈良に移され興福寺と呼ばれるようになった。古代・中世をつうじて大和一円に権勢を張り、京都の比叡山と並んで南都北嶺と称された。
治承4年の平氏の南都焼討ちをはじめ、何度か火災にかかり創建当初の堂塔は一基も残っておらず、寺域の大部分を失ったというが、今でも猿沢の池に映える興福寺五重の塔は奈良のシンボルとして人々に親しまれている。
毎年5月11,12の両日、夕刻から興福寺南大門跡で催される「薪御能」は能楽界最高の行事として知られる。竹矢來を組み寺紋入りの幔幕を張り、白い袈裟で頭を包んだ興福寺衆徒の警護する野外舞台で、諸派の能が次々に演じられ、午後5時過ぎ篝火を焚く頃から格別の趣きになるという。初日に四流家元の競演、二日目は四流の弟子によって演じられるという。
平成元年5月11日、教授嘱託会の名所めぐりにはじめて参加し、この薪御能を見る予定だったが、雨のため中止となってしまった。残念でたまらないが、その舞台だけでも紹介のこととする。

興福寺 猿沢の池と興福寺五重の塔  奈良市 (平6.4)

薪御能舞台

薪能中止 興福寺薪御能の舞台 残念ながら雨のため全面中止となってしまった (平1.5)

あま塚 鳴門市里浦 人丸神社 (平18・11記)

鳴門市に「あま塚」がある。案内板には「あま塚にはいろいろな説があり、日本書紀に出てくる海人の男狭磯(おさし)をまつった「海人塚」説、承久の乱で土佐に流され阿波で崩御された土御門上皇の火葬塚という説もあるが、平安時代の女流作家清少納言の供養塚説が有力」である旨記されているが、本曲の海女の墓とも伝えられているようである。

あま塚 あま塚 鳴門市里浦 (平12.9)


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